2019年6月 リンドバーグに学ぶ


先日 NHK(BSプレミアム)でチャールズ・リンドバーグのドキュメント番組を見た。実に面白かった。実に勉強になった。波乱に満ちた彼の人生を貫いているものは 誰が見たって そのハートの奥に潜む 向う見ずにも見える「冒険心」だ。

リンドバーグと言えば もちろん大西洋初横断飛行(1927年)。彼は米国下院議員を務めた父に独立心を学び 高校の化学教師だった母から勉強心を学び 機械好きの祖父に「飛行機」という進む道を見つけたらしい。

リンドバーグは 大西洋横断飛行の成功の後 世界の超有名人・超セレブとなった。裕福な投資家の娘と結婚し 幸せな生活を送っていたが ある日 突然の悲劇に見舞われる。赤ん坊の長男が誘拐・殺害されるという事件だ。ここまでは私も知っていた。しかしその後も続く彼の波乱の人生については全く知らなかった。

赤ん坊を失い失意のリンドバーグは 押し寄せるマスコミの眼を避けるため 家族でロンドンに移る。その後 ナチ台頭を恐れる米国政府の依頼でナチの空軍能力の視察に赴く。ヒトラーは 有名人リンドバークに最先端の施設を見せ 逆に彼をナチの広告塔として使おうとする。彼をベルリンオリンピックに招き 勲章を授け ドイツの力を誇張して見せつけた。

リンドバーグはまんまとヒトラーの作戦に乗せられてしまう。リンドバーグは米国政府に「ナチの空軍力は英仏を合わせた空軍力をはるかに上回る」と報告し 米国の戦争介入に反対の立場をとることになる。この報告は当時の英国首相チェンバレンの失策(対ドイツ融和政策)を後押ししたとも言われているし 実際 彼の主張はチェンバレンの主張と同じだった。結局 米国に戻ったリンドバーグは戦争介入反対を主張するため積極的に政治の場に登場する。1930年代後半の話しだ。

彼は 一時は国民の圧倒的な支持を得 ナチを毛嫌いするルーズベルト大統領と真っ向から対立することになる。しかし ナチの台頭に伴い米国の世論は反ナチに傾く。結果として リンドバーグはナチの手先との汚名を着せられ政治・社会の表舞台から姿を消すことになった。

この時 リンドバーグがヒトラーの脅威をどこまで感じていたのかのは分からない。ただ 英国で対ドイツ強硬派のチャーチルが首相になったのは1940年。それまでチェンバレンのドイツ融和策が続いていたことを考えると リンドバーグを責めるのも無理がある。しかし1940年フランスがドイツに敗北して以降も 彼は主張を変えなかった。彼が立場を変えたのは 1941年日本の真珠湾攻撃のことだった。いい意味でも悪い意味でも かなりの思い込みの強さだ。

戦後 アウシュビッツや広島を訪れたリンドバーグは 科学の発展に疑問を持つようになり これが彼の晩年の生き方になる。彼はハワイ・マウイ島に電気も通さない質素な住まいを建て そこで 飛行機ではなく鳥を友とした生活を送ることになる。同時に 自然環境保護のために様々な活動に精をだしはじめる。

ある時 フィリピンの水牛タマラオが乱獲により絶滅の危機にあることを知ると 単身フィリピンに飛び マルコス大統領に直訴。これによりタマラオの絶滅は救われることになった。最晩年 彼は一年のほとんどをフィリピンで過ごしたという。もちろん 動物と共存するフィリピンの田舎で現地の人の住む高床住宅で現地の人と同じような生活を送っていた。

フィリピンの生活中 リンパ腫瘍が発見されたリンドバーグはニューヨークの病院で診察を受ける。余命が短いことを知ったリンドバーグは マウイ島にもどることを決め そこを死に場所に決める。彼は死の床の中で 妻と共に葬儀の手配をし 葬儀で歌うべき讃美歌を自ら選んだという。残されたメモには 死という最後の冒険に向かうという前向きな言葉が記されていた。

もっと早くリンドバークの冒険心や行動力に触れていれば 私の人生も違ったものになったかも・・・。まあ それは次の人生に回すとして 彼を見習い 自分の死に場所くらいは自分で決めたいと思う。それくらいの ちょっとばかりの行動力と自由な心を持ってもバチは当たらないだろう。

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