2011年12月 その2 神がふったサイコロ


2011年が終わろうとしている。何ともすさまじい一年だった。多くの方が、本人に何の罪もないのに命を失い、財産を失った。

人は理由なき被害や病気にあ うと、何らかの意味を見出そうとする。意味を見出そうとすることにより、困難へ立ちむかう力を得ようとする。「この試練は神が与えたものに違いない」、 「私がこのような試練を与えられたことには何らかの神の意志があるにちがいない」、「物事にはすべて理由がある。意味がある。」

し かし現実には、そんな宗教論・人生論をあざ笑うかのように、神がサイコロをふった。そして、何の罪もいわれもない人たちがたとえようもない悲劇に見舞われ た。私たちは神のふるサイコロの前では無力でしかない。神はなぜサイコロをふるのか?・・・思い上がった人間に自分の愚かさを知らしめるためか?人間の限 界を思い出させるためか?人間に対する警告なのか?それともほんとうの気まぐれなのか?

立花隆が癌治療の最前線を取材した、2年前のNHK番 組を思い出した。その番組の中で、「癌は病気というよりも生命の一部である。生きていること自体が癌を生む」という話がでた。人間の生命力が高ければ高い ほど、癌の生命力も高くなるという。体の細胞分裂が盛んであればあるほど、癌細胞が細胞分裂し成長していく確率が高いというのだ。

これを人類の文明にたとえれば、「社会で起きる悲劇は社会の発展の一部である。文明発展そのものに悲劇が組み込まれている」ということになる。あるいは我々の人生にたとえれば、「生きるという行為自体に神のサイコロが組み込まれている」と言えるかもしれない。

立花隆はその番組の最後をこう結んだ。「癌を克服することは死ぬまでちゃんと生きることだ。」癌を抱える彼は、癌と闘うという考え方を変え、癌という存在を受け入れ、これをバネとして、ちゃんと生ききろういう考えに変わった。

2012年が、皆様にとり、生命力に満ちた年となりますように。

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