2016年4月 三菱自動車の不正(その1)


またもや三菱自動車の不正が発覚した。しかもまたしても外部からの指摘だった。以前 “金融財政事情”という金融関係向けの雑誌でビジネス倫理のコラムを連鎖していたことがある。その時 三菱自動車のクレーム隠しが問題となり それをテーマに2回のコラムで筆を執った。今回それを読み返して まったくそのまま通用する内容であることに驚きと納得を感じた。というわけで ここで当時のコラムをそのまま2回にわたって掲載させていただくことにした。2004年のコラムである。

「三菱の文化は本当に変わったのか。その答えを出してくれるのは時間だけだ。」・・・今回のクレーム隠しのことを言っているのではありません。米国のビジネススクール教科書(注)に収録された米国三菱自動車セクハラ事件ケースの結びの言葉です。

1990年から続いていた米国三菱自動車イリノイ工場のセクハラ問題は、98年、同社が約500人の女性被害者に計34百万ドルを支払うことで和解に至りました。この事件は、米国でも最大規模のセクハラ訴訟として全米メディアで取り上げられ、多くのビジネス倫理教材に掲載される結果となりました。

さて、冒頭の言葉は、98年の和解から2、3年後の状況を指したものです。この教科書では「この時点で極端なセクハラ問題は無くなったものの、依然として多くの深刻な問題が存在する」と指摘し、問題の根源を断つ努力がなされていないのではないかとの疑問を呈しています。

三菱自動車では、この米国セクハラ事件と同時並行して、97年に総会屋利益供与事件が発生。その後、記憶に新しいパジェロのリコール隠し事件、そして最近の一連のクレーム隠しへと発展しました。どうやら、答えを出すのにそれほどの時間は必要なかったようです。

さて、最近のクレーム隠し事件で私がもっとも驚かされたのは、どうしてこう次から次へ、ばらばらとクレーム隠しが出てきたのかということです。はたして、社内に全容を把握していた責任者はいなかったのでしょうか?実は、私はその可能性が高いのではないかと思っています。

このコラムでは、しつこいほど、個人の道徳観は所属する組織(すなわち、上司や同僚)によって作られると述べ、倫理モデルとしての経営者の行動の重要性を指摘してきました。これに従えば、いつ頃かはわかりませんが、経営者が一件のクレーム隠しを決断した時点で今日の事態も予測できたといえます。この時以来、こうした問題は経営陣にすら報告されることが少なくなったはずです。「隠せ」と指示した経営者が、部下に「ただし、私には隠すな」と期待すること自体が無理な話です。

経営者の決断を知った管理職の大半はこれがこの組織に通用する規範だと考えたはずです。つまり、この種の問題は隠し通すのが社員としての責任と理解したはずです。

その管理職の部下も、部下の部下も同様です。経営責任者が関わったクレーム隠しはたったの一件かも知れないのに、その行為は何十件ものクレーム隠しを生むことになります。これほど多くのクレーム隠しの実態にもっとも驚いたのは逮捕された三菱自動車の元経営者自身だったかもしれません。

さて、冒頭の言葉は原文の直訳ですが、ここでは三菱自動車ではなく、三菱という言葉が使われています。次回はグループという視点からこの問題を考えてみましょう。

(注)Business Ethics: Ethical Decision Making and Cases, 5th Edition (Houghton Mifflin, 2002)

>> 過去のひと言