過去のひと言
2015年6月 “考える技術・書く技術” 裏話
先日 友人から 「読書で賢く生きる」(ベスト新書)の中で 私の翻訳した「考える技術・書く技術」がベスト10冊に入っていたとの連絡があった。これを契機に思わず昔のことを思い出してしまった。
同日本語訳書は1995年に出した原版20版と1999年に出した新版38版 あわせて58版のロングセラーとなっている。税込で3千円を超える高価な本にもかかわらず 20年経った今でもまだ売れている。出版業界では「ロングセラーのお化け本」的な存在らしい。
英語原書が出版されたのは確か1980年頃。私がこの本と出合ったのは1985年である。当時 経営コンサルタントになりたての頃 私のライティングはよほどまずかったらしい。米国人のパートナーから読んでおきなさいと手渡されたのがこの本だ。目から鱗というのはこのことだろう 手渡されたこの原書は以来私の宝になっている。
1988年頃 この本を読み返していて なぜ日本語訳がでないのだろうかと気になった。そこで本に出版元として記載されていた著者(バーバラ・ミント女史)の個人オフィス(ロンドン)に直接手紙を書くことにした。10年近く前の本に記載された住所なので もしかしたらもう移転して届かないかもしれない。届いたとしても何の面識も紹介もなしの手紙である。返事が来る保証などまったくない。まったくのダメ元だ。「本の内容にいたく感激しました。日本語訳を出す気はないでしょうか。オーケーなら私が日本で出版社にあたりたいのだが・・・。」
まったく見知らぬ若造からの手紙に興味をもったのか ミント女史からはすぐに返事が返ってきた。「マッキンゼーで同僚だった大前研一氏から こんな難しいものは日本では売れないと言われた。やれるならやってみて」という内容だった。
その後 幾つかの出版社に持ち込むも 大前研一氏の言葉どおり「難しすぎて売れない」と断わられた。しばらく寝かせた挙句 懇意になったセミナー会社グロービスの支援もあり ダイヤモンド社の説得に成功。出版にこぎつけたのは1995年だった。私が原書を読んで10年 ミント女史に手紙を書いて7年も経っていた。
良書ではあるけれども 所詮はコンサルタントというニッチ業界の本である。出版当時 当の出版社も含め誰もこんなに売れるとは思っていなかった。ダイヤモンド社編集長の「まあ売れないでしょう。でも腐らない本なのでやってみましょう」との言葉が今でも耳に残っている。
この本の成功の後押しもあってだろう その後 ロジカル思考ブームが起き 「・・・の技術」というタイトルが流行し 多くの類似本が出版されている。23年前 私がこの本の出版前から続けているロジカル・コミュニケーションの教育は今や私の活動の中心になった。私の事を日本のロジカルライティングの第一人者と言ってくれる人もいる。
考えてみると 翻訳本出版決定前に 何百人もの日本人コンサルタントが英語原本を読み その内のかなりの人がこの本の価値に気づいたはずだ。しかし著者に日本語出版をかけあったのは私一人だった。
この時の経験から「我々の頭の上には幾つものチャンスが流れ星のように降り注がれている。しかし それに気づかない人 気づいてもただ漠然と見ている人が何と多いことか。チャンスの流れ星は眺めるものではなく 自分からつかみに行くものだ」というのが私の人生訓となっている。
2015年5月 マーリン・メソッドの薦め
5月に行われる九州・アジア経営塾(碧樹館)の卒塾式に向けて贈る言葉をしたためた。九州アジア経営塾は九州財界が中心となり約10年前に設立された経営リーダー育成組織である。約一年に渡り 祝日・週末を利用して講義・講演・勉強会が繰り返される なかなかにハードなプログラムである。福岡出身であることもあり 私はこの教育プログラムの一コマを担当している。
今回私が寄せた卒塾のテーマはマーリン・メソッドの薦めである。さて 皆さんはこのマーリン・メソッドという言葉を聞いたことがあるだろうか?フロリダ・マーリンズのマーリン(marlin)ではなく Merlinだ。マーリン(Merlin)と言うのはアーサー王物語(英国)に出てくる魔法使いのこと。この魔法使いは未来を知っており 自分が見る未来の姿から今やるべきことをアーサー王に助言する。このことから「先ず将来どうなりたいかを目標として定め 将来あるべき視点から今やるべきことを考える」アプローチをマーリン・メソッドと呼ぶようになった。
そこで提案なのだが 今将来を考えている方 進路にお悩みの方は 一度 マーリン・メソッドで人生を考えてみたらどうだろうか。たとえば あなたは60歳の時にどうなっていたいと思うか?何を達成していたいと思うか?次に この目標を達成するためには 50歳の時にどうなっている必要があるだろうか?そして そのためには 今 何をなすべきだろうか?
決して「今何をすべきか」だけを考えてはいけない。その答えは「あなたが将来何をしたいか 何になりたいか」にあるのだ。
さて冒頭の九州・アジア経営塾では今の育成プログラムを碧樹館と称している。碧樹とは落ち葉のない松などの常緑樹の事だ。この碧樹館の名前は 禅語に登場する「清流無間断 碧樹不曾凋」に由来しているという。「清らかな渓流は流れを絶やすことはなく 碧樹もいつも青々として決して凋む(しぼむ)ことなく永遠に碧(みどり)を保つ」という意味である。ひるがえって「毎年毎年の小さな若葉が永遠の碧樹を生む。つまり 日々の絶え間ない努力が未来につながる」という意味で使われている。
日々の努力の前に まずは努力の行方をイメージしてみることから始めよう。
2015年4月No.2 ジクレー版画(その2)
前回 ヘザー・ブラウンのジクレー版画の話を持ち出し 幾らだったら買うだろうかという話しをした。よく考えてみると これは実に難しい需要と供給の話しなのかもしれない。何しろ ジクレー版画では デジタルデータさえあれば いつでも何枚でも何万枚でも同じものを作り出すことができるからだ。何度も言うがまったく同じものをだ。
先のヘザー・ブラウンの場合 キャンバス地に印刷したものを通常は100枚の枚数限定で数万円~10数万円で売っている。画廊の人に聞くと 作品の裏にプリント数と手書き署名があるという。 おもしろいのは ヘザー・ブラウン・ギャラリー(日本)では 紙に印刷したジクレーは“アート・プリント”と称し数千円で売っている。アート・プリントがキャンバス印刷と同じ程度に精密な印刷になっているかどうかは定かではない。しかし恐らくは キャンバス地に印刷し 限定印刷枚数をアーティストが裏に本人署名することにより価値を保とうとしているのだ。
しかし しかしである。うがった見方をすればこの印刷枚数はアーティストへの信頼がすべてである。それはあくまでも個人の宣言であり 第三者機関の保証ではない。アーティストが原版とデジタルデータを廃棄し その事実を第三者機関が保証すればこの印刷枚数は正真正銘の限定である。しかし 現状のジクレー版画では いつ刷ろうが 何枚すろうがアーティスト次第なのだ。通常 原版は存在するが(つまり直接デジタルで作らないのが普通らしいが) それは廃棄せずに高い値段で売却する。
極端に言えば 100枚限定と称しても実際には一度に100枚刷る必要はない。注文が来てから一枚ずつ刷ればよい。作者的にはその方がコスト管理的に都合がよい。もし予想以上に つまり宣言した印刷枚数以上に売れそうだったら 原画に少しだけ手を加えてバージョン・アップ作品として印刷すればよい。もちろん アーティストは信用できる人でも 原画のデジタルデータが盗まれたり 悪用されないという保証はない。何せ 作品は正真正銘すべて同じものなのだ。また 印刷されたものを原版としてさらにジクレー印刷しても 今の技術では見分けがつかないかもしれない。
ここに原画が同じ二つのヘザー・ブラウンのジクレー版画があったとする。一方の作品の裏にはヘザー・ブラウンの手書き署名があり 他方の作品にはないとしよう。はたして価格はどう違うだろうか。よく考えると ジクレー版画には供給の議論は当てはまらないように思える。というか 供給の無限性を前提としなければならないように思える。つまりこれは美術作品そのものの需要と供給の話しではなく ヘザー・ブラウンの手書き署名の需要と供給の話しにすり替わっているのだ。極論すれば ヘザー・ブラウンのジクレー版画の価値は表面の絵ではなく 裏の署名にあるとも言える。・・・しまった!画廊で作品の裏を見てこなかったことに今気が付いた。
2015年4月 ジクレー版画(その1)
先週一週間 ホノルルに行っていた。夜ワイキキのビーチウォーク通りを散歩の途中 ふらっとギャラリーに立ち寄った。ウィンドーに飾ってあったヘザー・ブラウンの絵に惹かれたのだ。今やかなりの著名売れっ子アーティストなので名前は知らずとも 作品を見ればああこの絵かと思う人も多いに違いない。カリフォルニア出身ハワイ在住の女性若手アーティストで 日本にもヘザー・ブラウン・ギャラリー(代官山)があるほどの人気らしい。
ギャラリーでは 奥の一角にヘザー・ブラウン・コーナーが設けられ 多くの作品が展示されていた。展示されていた作品はすべてキャンバス地だったが 近づいてよく見ると やはり版画。今はやりのジクレー版画だと言う。ちなみに ヘザー・ブラウンの版画はすべてジクレーだという。ジクレー版画?・・・お恥ずかしい話だが このヘザー・ブラウンの実物を見るまで 私はジクレー版画が何なのか全く知らなかった。
木版やエッチングもあるが 現代の美術版画はリトグラフ(水と油の反発を利用した平板印刷)とシルクスクリーン(プリントゴッコみたいな仕組み)が主流だった。ちなみに私のオフィスや自宅には米国のポップアート版画を何枚か飾っているが すべてシルクスクリーン(米国風に言えばセリグラフ)である。しかし調べてみると 今やジクレー版画が幅を利かせつつあるようなのだ。
ジクレー版画とは 要するに高級インクジェット・プリントのこと。原画をデジタルで読み取り それをインク吹付で印刷するのである。ただし数百種類のインクを用いて数万色を発色させる超高級インクジェットだ。これにより原画をかなり忠実に再現できるようになっているし 紙だけでなくいろいろのものに印刷できるようになっているという。
まさにデジタル時代の申し子。言いこと尽くしに思えるが これを美術品として見ると話しが違ってくる。つまり何枚でも全く同じものを生み出せるインクジェット印刷物にどれだけの美術的価値を見出すかという問題である。つまり幾らで売るか買うかという問題だ。
たとえば ホノルルのギャラリーでお気に入りのジクレー版画が売られていたとする。しかし その版画には値段表示がない。ものすごく気に入っているのだが あなたはそれがジクレーであり ジクレーがジェットプリント印刷であることも承知している。さて あなたは幾らならばこの作品を買うだろうか?
あるいは まったく同じジクレー作品が二つあり 片方には作品の裏側にアーティストの署名がついている。しかし もう片方にはどこにも署名がない。裏側に署名つきのものの相場販売価格が5万円だとする。あなたが売り手ならば 署名なしのものは幾らで売ればよいだろうか。もちろんジクレー印刷なので作品そのものはまったく同じである。(次回に続く)
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