過去のひと言
2024年9月 在宅勤務廃止とフリーアドレス廃止
在宅勤務廃止
9月18日の日経新聞朝刊でアマゾン社の特集記事が出た。見出しは「アマゾン 週5日出社義務」。アマゾンでは新型コロナの蔓延で事務系社員の大半に在宅勤務を認めたものの 23年5月には週3日出社を義務付けることにした。現状 多くの米国企業ではこの週3日出勤(それ以外は在宅勤務可)というのが一般的になっており 日本の大企業もほぼこれに倣っている。
アマゾンは この一見定着したかに見えた週3日出勤制をコロナ以前の週5日出勤に切り替えることを決定したのだ。全世界の社員に対し2025年1月から適用すると発表。ハイテク業界で先駆けての決定だ。理由として挙げているのは「強固な企業文化構築」。在宅勤務を続けていると 社員の当事者意識の強さや素早い意思決定 倹約と言ったアマゾンの企業文化の維持が難しいと判断したという。
以前 このコラムでも オンライン・ミーティングは 決まったことを伝達するだけならよいが 参加者間で共感を育成したり 実のあるミーティング成果を出すのは難しいと述べた。オンライン・ミーティング参加者の脳波測定から得られた検証結果によるものだ。当然 このオンラインの限界は アマゾンの言う「強固な企業文化」という観点でも同じだ。
面白いのは アマゾンのいう企業文化の維持は週3日の出社では無理だと判断した点だ。考え方が徹底している。米国では テスラのイーロン・マスクCEO オープンAIのサム・アルドマンCEO グーグルのエリック・シュミット元CEOなど 特にハイテク企業の経営者に在宅勤務に否定的な人が多い。在宅勤務禁止の動きはハイテク業界に波及するかもしれない。
フリーアドレス廃止
見出しにはなかったが この特集記事の中で特に私の目を引いたのが アマゾンの米国2本社(シアトルとアーリントン)でフリーアドレス(自由に勤務座席を選ぶシステム)を廃止し 固定座席に戻すと発表したことだ。強固な企業文化の確立を追求するならば この決定も当然だ。
私自身は幸いなことにフリーアドレスの経験はない。ただし 私が1980年代後半 米国系の経営コンサルティング会社に勤務していた時に 米国本社の一部支店の若手スタッフに対しフリーアドレスの採用が始まったのを覚えている(マネジャー以上は個室)。経営コンサルティングの場合 活動組織がプロジェクトごとに融通的に編成・変更されるので 組織ごとに机の場所を固定化する必然性はない。とりわけBPO(Business Process Outsourcing)的なプロジェクトを請け負い 主に顧客先で仕事をするような業務では固定座席の必要性は薄いだろう。
ところが 2000年代に入り 日本の一般企業で続々とフリーアドレスが採用され始めたのには驚いた。コンサルティングのようにプロジェクトごとに組織が編成・変更されるのではなく 活動する組織単位が固定化されている企業の話だ。ちょっと待ってくれ。組織単位というのは所属メンバーが目標を共有し 共同してその目標を達成するための集団の筈だ。せっかく組織がしっかりと構築されているのにその組織単位と無関係な形でフリーに座席を決めてよいというのだから 私には理解できない。
フリーアドレスにはもっともらしいメリットが挙げられるがはっきり言ってコストだろう。コストが許されるならば 組織単位で座席を固定し 組織を超えてコミュニケーション可能な場を別に設ければよいだけの話だ。もちろん アマゾンのような余裕のある会社はこれができるはず。アマゾンが強固な企業文化を目指すならば それは強固な組織づくりと同義語。その一歩としてフリーアドレス廃止にはもろ手を挙げて賛成したい。
在宅勤務を積極採用している企業の方 フリーアドレスを採用している企業の方 このアマゾンの組織作り(強固な企業文化構築)と回帰戦略の関係を再度考えなおした方がよいだろう。
2024年8月 米国分断
トランプ候補は3月 米自動車産業について語った際 自分が大統領選で負ければ「国は血の海になる」と述べ 批判を呼んだ。バイデン大統領は8月7日に 「彼は本気で『自分が負ければ血の海になる』と言っている」と述べ 大統領選でトランプ前大統領が敗北した場合に平和的な政権移行が行われるという確信はないと語った。このニュースは広く報じられたが これがどのような意味を持つものか深く理解できなかった。
そして 8月13/14日 「NHKBS 世界のドキュメンタリー」を見てその意味を理解した。番組の日本語タイトルは「米議会襲撃が再び起きたら シミュレーション 緊迫の6時間」。英語の原題は「War Game」。
設定は2025年1月に予定される米国大統領の議会承認日。2期目を迎えるホーサム大統領(仮名)に僅差で負けたストリックランド候補(仮名)の支持者数千人が承認日に議事堂を襲撃するという内容。2021年に起きたトランプ元大統領呼びかけの議会襲撃事件が 今回はより組織だった形で計画的に行われるという設定になっていた。元州知事や大統領補佐官や軍関係者が大統領 官邸 軍トップなどの役割を演じ 経験豊富な元軍人がテロリストを演じる。シミュレーションは襲撃開始から6時間という時間を区切り すべてアドリブで進行する。大統領は6時間で全米に広がる事態を収束させることができるのか あるいは全米を二分した内戦状態を引き起こすのか。
この議会襲撃を裏で画策していたのは実は宗教法人の名の下に極秘裏に組織されていたプロのテロリスト集団。州兵の一部を仲間に引き込み 幾つかの州で反乱を主導する。アリゾナ州では議員が人質にとられ州議会が乗っ取られる。SNSで偽の情報を拡散させ いったい今実際に何が起きているのか 国民には分からない。当初の情報戦争では襲撃側が圧倒的な優位に立つ。
大統領官邸のポイントは 反乱法を発動し 連邦軍の力で連邦議会や州の暴動を鎮圧させるかだ。米国憲法では反乱法を発動しない限り 軍隊は米国民に銃を向けてはならない。テロリスト集団としては 大統領に反乱法を発動させ 連邦軍に先に自分たちに向けて発砲させるように仕向ける。「先に発砲した方が負け」という内乱の鉄則にのっとった戦法らしい。
結果としては 大統領は反乱法を発動せずに 州兵で混乱を鎮めるという判断を下し これが功を奏する。内戦(第二の南北戦争)を避けることができ 何とか最悪事態を脱出。めでたし めでたし。
しかし これはあくまでもシミュレーションの話。本当に州議会を乗っ取られたときに反乱法を発動せずに済むのか 誰にも分からない。しかも 現実問題として 州兵や軍部の数%には親トランプ派がいるという。ちなみにこのシミュレーションの詳細結果はバイデン大統領や現官邸に報告されている。おそらくは先のバイデン大統領のコメントはこうした背景を反映しているのだろう。「米国の分断状況を内戦前夜とみなすのはお門違い」と言い切れない怖さが本当にある。
もう一点 このシミュレーションを見て再認識したのがSNSの偽情報の怖さだ。偽情報は とりわけ問題発生の初期においては 先手が優位。後手に回ると防御(偽情報の修正)は難しい。シミュレーションではアカウント削除などにより偽情報の拡散が沈静化をみせる。しかし 現実に そんなにうまく行くだろうか。拡散が拡散を呼ぶのではないだろうか。これに海外の工作が加わると そら恐ろしい。と考えていたら 今日 テイラー・スイフトがトランプを支持しているという偽画像がトランプ候補から流された。・・・事実は想像を超えているらしい。
2024年7月 人生五十歩百歩
五十歩百歩
先日 仲間内でゴルフした時の話。多少の腕前の差はあるものの 「五十歩百歩」 だなという話になった。「目くそ鼻くそ」 「どんぐりの背比べ」 「似たり寄ったり」・・・この種の同義語はやたらと多い。しかし後でじっくりと考えてみたら かなり含蓄のある表現のような気がしてきた。
「五十歩も百歩もたいして変わらない。どちらも同じようなものだ」という意味で 通常は ある特定の事柄について用いる。たとえば ゴルフの飛距離に関して 「200ヤード飛ばそうが 210ヤード飛ばそうが 我々の腕では五十歩百歩だ」。あるいはゴルフのスコアに関して 「100も105も五十歩百歩だな」という具合だ。
しかし よくよく考えてみると 特定の事柄だけではなくて より広い視点で使うこともできるのではないかと思った。たとえば 「多少広い家に住んで贅沢していようが 狭い家でこじんまり暮らしていようが五十歩百歩。それは人生観の違い。私は狭い家で暮らしているが 私にはこういう趣味や生きがいがある。人生トータルで見ると五十歩百歩」という具合。つまり よほどの天才やエスタブリッシュメントは別かもしれないが ほとんどの一般市民にとって 異なる人生観で物事を見ると 目に見えるそれぞれの生き方の違いなどすべて五十歩百歩に見えてくる。
つまり どんな生き方をしようが100年経てば死ぬと考えると それぞれの目に見える生き方はほとんど「五十歩百歩」 「目くそ鼻くそ」と言えるかもしれない。なるほど そう考えると 少し優しい気持ちになる。「五十歩百歩」・・・私の人生観に加えよう。
二度あることは三度
さてそのゴルフでの出来事 友人が昼食後の後半ハーフ開始の際 時間ギリギリで悠然とティーグラウンドにやってきた。前が空いていたので他の三人は彼を飛ばして先に打った後 イラつきながら彼を待っていたのに。ちなみに ゴルフでは昼食後のスタートは 指定された予定時間よりは早くスタートできるのが普通だ。ゴルフをやっている人ならみんな知っている。しかも昼食時には 彼にくぎを刺すように お互いに早めに集まろうと話していたばかり。その舌の根が乾かないうち スタートギリギリにやってきたのだ。彼は時間ギリギリを繰り返す常習犯だった。
さて そのゴルフはセルフでプレーしていた。キャディさんがいないので プレー中はゴルフクラブの管理は自己責任だ。ところが プレー中 もう一人の友人がクラブを置き忘れてあわてて前のホールに取りに行くことがあった。しかも二度も。さらには ゴルフの後 私が送ってあげた車の中に 自分のスマホを置き忘れることも発生。どうやら一つのことに集中すると他のことが目に入らなくなる性格らしい。忘れ物魔だ。
もう一人のまともな友人曰く 「二度あることは三度ある。二人ともこの歳になると直らないな」。「二度あることは三度ある」か または「三度目の正直」 どちらが正解だろうかと思うときもあるが その友人が年齢を切り口にしたのは慧眼だったかもしれない。つまり 若い時は「三度目の正直」を期待できるかもしれない。二度失敗することはあるかもしれないが 意識し努力すれば三度目には失敗を克服できるだろう。したがって二度の失敗くらい多めに見るべきと言えるかもしれない。しかし 我々の歳になると 多くの場合「三度目の正直」は期待できない。やはり「二度あることは三度ある」だろう。
さて 遅めのご報告ですが 4月の富士五湖100キロマラソンでは 結局74キロ地点でギブアップ。走っているときに足がふらつくことが何度か続き 危険を感じてリタイア。後で考えると脱水症状だったらしい。後半 疲労で胃がむかつき 水以外はポカリも受け付けない状況になっていた。情報によると 水だけでは脱水症は防げず ミネラル分などの補充が必要らしい。
結局 今までの100キロマラソンを総括すると 3回完走した後 4回目はハムストリング痛のために72キロでリタイア 5回目の今年は脱水症のために74キロでリタイア。さて 次回は「二度あることは三度ある」か または「三度目の正直」となるか。どうもこれは私の若さを占うチャレンジとなりそうだ。
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