過去のひと言


2017年12月 日産問題に思う

年末の大学同級生との飲み会で 日本メーカーのモラル低下が話題になった。神戸製鋼の不正から始まり 直近のJR西日本での新幹線台車亀裂問題など 本当に日本のモノづくりはどうなったんだろうか?

さて中でも何か割り切れなさを感じたのが日産の無資格者による車両検査問題である。この背景にはもっと根本的な メーカーのモラル以外の問題がありそうな気がしてならない。要は「検査員」という制度そのものだ。よく考えると 検査員は検査される会社の従業員。つまり 検査する人が検査される会社に雇われているというおかしな構図になっている。まるで オオカミにオオカミの番人を任せているようなものだ。これはおかしい。

そんなに大事な検査ならば 「検査員」という印籠をメーカーに持たせること自体がおかしい。単純に 検査項目と検査手順を定め それにしたがって検査するように法で定め それが確実にやられているかどうか 年に一回でも監督官庁にて抜き打ち検査すればよいではないか。なぜこういう仕組みをとらなかったのだろうか。

元環境省のエリート役人(技官)だった同級生がこれには霞が関が絡んでいるのではないかと言い出した。この車両検査を管轄するのは国土交通省。管轄すると言えば聞こえがよいが 要は検査員の資格を付与するお役所の団体があって そこが自動車メーカーから検査員の資格教育や資格付与の費用をかすめ取っているのではないかという話しだ。もちろん実際の検査業務はメーカーに丸投げだ。当然 その団体のお偉方は霞が関の天下りルートになっているはず。

なるほど。役所で直接検査するような仕組みを作ると手間もかかるし責任も生じる。「検査員」という仕組みを作れば 自分たちの手を汚す必要はない。しかも検査員教育と資格試験の方が儲けはずっと大きいはずだ・・・彼が正しいかどうかは別にして妙に説得力のある話だ。もしこれが本当の話しならば 当然 自動車メーカーの人間は検査の裏の意味を知っているはずで 検査自体を軽んじるのも致し方ない。なにか一昔前の日本型官僚主義の幽霊をみた思いがする。

私は水素社会実現の信奉者である。二度目の車検が済んだ愛車を見ながら 次に買う車はぜひ燃料電池車にしたいと考えている。しかし こればかりは政府の後押しなしには進まない。水素社会推進・燃料電池車開発に向けていろいろな制度が導入されるだろうが 日本型官僚主義にだけは邪魔をしてもらいたくない。もうそんな時代ではないと思う。

2018年が皆様にとってより良い年でありますように。

2017年11月その2 カズオ・イシグロを読む

ノーベル賞作家カズオ・イシグロの作品を読んだ。「日の名残り」 「私を離さないで」 そして 「忘れられた巨人」の三作品である。「さすがノーベル文学賞」の一言に尽きる。

「日の名残り(The Remains of the Day)」は1989年の作品。ブッカー賞受賞作。老境に差し掛かった執事の回想で話が進む。同じく執事を務めた父を手本に執事でもっとも重要なものは“品格”だと信じる主人公。品格を生きるよすがとして実直な執事生活を続けてきた。ある日 以前女中頭だった女性を訪問する一週間の休暇旅行に出る。この旅が初めて仕事を離れ外からゆっくりと自分の人生を振り返るきっかけになる。旅を通じ 今迄けっして疑うことのなかった自らの頑なな人生に もしかすると他の生き方もあったのかもしれないと気づく。

老境を前に人生を振り返る執事に 執事という陰の仕事の価値 かつて英国政治の中心にいた貴族が大衆からの乖離いく様子 そして英国の斜陽を巧みに重ね合わせて描く。共通するのは 変化の中で静かに輝きを失う昔ながらの価値観 そして それを当然の事として受け入れざるをえない現実。考えつくされた展開にはまさに脱帽である。リアリティの高い丹念な描写は 本当に執事経験者の語り口に思えるほどだ。

「私を離さないで(Never Let Me Go)」(2005年)は臓器提供の目的で産み出され育てられた多くのクローン人間の一人が自分の過去を振り返る話。これだけ聞くと 臓器提供のためにクローン人間を産み出すことへの倫理的な批判が作品の根底にあるように思えるが 本書のテーマはそこにはない。主人公は 自分の環境を憤るのではなく 他者を批判するでもなく 自分の運命を素直に受け入れようとする。一般人とは異なる環境の中でも 友情や愛を育んだ子供時代を楽しく振り返り 成長した後も残された人生を精一杯生きようとする。どうしようもなく不合理な運命にありながらも 普通の人と何ら変わりなく 生きる価値を追い求める。だからこそ 逆に その不合理な運命への憤りが読み手の心に強く響く。

世界にはロヒンギャを始めとする多くの虐げられた少数民族がいる。“絆”の価値が声高に叫ばれる中 彼らは深い闇で仕切られた世界に孤立しているのかもしれない。日本人の両親を持ち 英国と言う保守的社会で育ったイシグロならではの感性がうかがえる作品だと思う。

「忘れられた巨人(The Buried Giant)」(2015)は最新作。舞台はアーサー王死後のブリテン国。ブリトン人を率いるアーサー王はサクソン人との闘いに勝利しブリテンを制する。ただし 勝利の裏には 平和協定を踏みにじり多くのサクソン人を虐殺した忌まわしい過去があった。アーサー王は 自分の亡き後 これら虐殺の記憶がサクソン人の恨みと反撃を引き起こすことを恐れる。アーサー王の助言者 魔術師マーリンは 人々の脳裏から虐殺の過去を忘れさせるために 忘却の魔法をかける。忘却の魔法は霧となり村々を覆い 人々の記憶を消し去っていく。そのおかげで 霧に覆われた村々の人は ブリトン人もサクソン人も虐殺の過去を忘れ 平和な暮らしを続けることになる。話はここからスタートする。

登場するのは 消された子供の記憶をとりもどしたいと願う愛情深いブリトン人の老夫婦。ブリトン人攻撃のためにサクソン人の恨みの記憶を蘇らせようと西方からやってきたサクソン人戦士。アーサー王の命を受け 平和を維持するために魔法を守ろうとするブリトン人騎士。竜と血を通じ心を通わせる勇敢な少年。記憶をめぐってそれぞれの思いが交錯する。

忌まわしい過去があり その過去の記憶が蘇ったとしても 老夫婦の間の愛情に変わりはないのか。虐殺は罪であるけれども 平和を維持するためには過去を忘れることが大切なのだというブリトン人騎士の考えは通用するのか。あるいは 虐殺と忘却の上に成り立った平和は偽物であり 長続きしないのか。・・・日本が過去に起こした虐殺の記憶はどうすれば償えるのか。今世界中で行われている虐殺の記憶はどう語り継がれるのだろうか。過去の罪 罪の記憶という永遠のテーマを投げかけた意欲作。

他の二作品が主人公の回想と言う形で一人称で描かれているのに対し この作品は三人称で展開する。また 他の二作品はリアリティを前面に押し出した丹念な描写が特色だが 本作品は想像の世界であり 目まぐるしいストーリー展開が読む者を引き付ける。更に 想像の世界ということもあり 幾つものメタファーが登場し テーマ追及に深みをもたらしている。テーマ・描写・ストーリーのすべての面でカズオ・イシグロの力を見せつけた作品。ここに挙げた三つの作品の中では この「忘れられた巨人」が私のイチ押しである。

2017年11月 横浜マラソン中止に思う

10月29日に予定されていた第3回横浜マラソンが台風のために中止になった。結果からみれば これは正しい決定だった。走ることだけをかんがえれば多少の風雨でも大丈夫だが 多くの給水・給食ステーションが仮設テントで設営されることを考えれば 強風の中の開催は危険すぎる。開催中止後の連絡も概ねよかったと思う。なかなかに迅速な通知だったし 完走タオルの追走 次回大会への優先参加など 内容的に見ても妥当な結論だと思う。

しかし そもそも どうしても解せないのが開催月の変更である。第1回と2回は3月下旬の開催だった。それが突然のように今年の第3回開催から10月末に変更になったのだ。異常気象の今日 10月の台風など珍しくもなんともない。しかも台風がないとしても 10月のマラソンなどまったくランナーのことを考えていないかのような日程設定だ。一般市民ランナーから言わせていただくと

● 10月末は市民マラソンには暑すぎる。この時期に3万人近い市民ランナーを走らせるなど無謀に近い。おそらく救急車のお世話にある人は3月開催の3倍くらいになるのではないだろうか

● 次に 同じ暑さという観点から 10月開催では十分な準備ができない。一般市民ランナーの場合 大会の3か月前くらいからトレーニング量を増やすことになる。となると 10月開催に間に合わせるには遅くとも7、8月くらいから走る量を増やしていくことになる。酷暑の時期である。これでは満足な練習量を維持するのは難しい

● 更にもう一つ別の観点からも 10月開催では準備に時間をさけない。一般企業に勤務するビジネス・パーソンにとっては9~10月はどうしても仕事で忙しい時期だ。この時期に走る量を増やすのはなかなかに難しい。3月開催の場合 普通の人は1~2月は仕事的にはゆったりしている時期なので 十分に走る時間も取れるのだ

ちなみに今迄10月に開催される大型市民マラソンとしては 10月下旬に開催されていた大阪マラソンが唯一だった。他の大型マラソンはすべて11月以降の開催だ。ところが 大阪マラソンも酷暑との悪評に勝てず 参加者倍率は当初の5.5倍から4.2倍に確実に低下していった。そしてついに今年から 大阪マラソンも10月下旬開催をギブアップし11月下旬に日程変更することになった。今年は11月26日開催予定だ。実は神戸マラソンがこの一週間後(11月19日)の開催なのだが 日程の正面衝突覚悟のうえでの変更ということだ。

横浜マラソンは大阪マラソンの状況からまったく学んでいない。しかも まったく逆のことをやっているのだから何とも言葉が見つからない。もしかして10月開催にすれば2月開催の東京マラソンと競合しないので参加希望者が増えるとでも思ったのだろうか。参加者の立場でいうと 1か月空いていれば両方走るのには十分である。もし期待ほどに申し込みが伸びていないのであれば それは日本一高い1万5千円の参加料のせいではないだろうか。あるいは前日までに済ませなければならない現地での参加手続きのせいもあるかもしれない。(私はこのためにわざわざ高騰する横浜のホテルに前泊することにした。今回の中止でそのホテル代も無駄となってしまった。)

今回の台風騒動をきっかけにぜひ開催日の再考をお願いしたい。

2017年10月 言葉の威力

あっという間に 総選挙が決まって あっという間に「希望の党」やら「立憲民主党」などが出現した。選挙結果がどうなるかは別にして 最近感じた「発言」や「言葉」について好き勝手に言ってみたい。

さすが総理大臣の安倍さんは言葉の使い方が絶妙である。解散発言から今現在(10月6日)まで 失敗らしい発言は見当たらない。というか 発言に中身がないので失敗も見当たらないというのが正しい表現かもしれない。ご本人は無難に解散批判を切り抜けたと思っているのかもしれないが 国民をばかにしてはいけない。国民は解散理由などお見通しである。

おそらくは安倍総理の意を受け 小池都知事に挑発的な発言を続ける小泉進次郎氏。どうもこのお坊ちゃんには中高年の気持ちが分からないらしい。今や中高年がアンチ自民で若年者が自民支持の時代と呼ばれる時代だ。ちなみに 自民党は若者の自民支持を反映して選挙年齢を引き下げたと言われている。中高年の私に言わせれば この小生意気な二世小僧の挑発的な発言は少なくともわれら中高年の更なる自民離れを招いたはずだ。

一方 舌鋒鋭いと思わせた小池都知事だが あの「排除」発言にはびっくりだ。なぜ排除などという言葉を使ったのだろうか。おそらくは つい本音が出てしまったのだろう。内容的に考えれば当たり前のことを言っているのだが このたった一言で驚くほど多くの票を失ったに違いない。「排除」・・・小池都知事は この言葉に潜む差別的なニュアンスを感じないほどに鈍感になってしまったのだろうか。

「三権の長経験者は遠慮してもらいたい」と語った希望の党の細野氏の発言にもびっくり。まさにゴーマン発言の何物でもない。これは小池氏に言わされたのか それとも自分の考えで発言したのか。なぜこんなことを公の場で言う必要があるのだろうか。対象者は二人しかいないのだから 直接言えばよいと思うのだが。

さて民進党から割れて立憲民主党を立ち上げた枝野氏。この立憲民主党と言う言葉にこだわったらしいが これを見た一般国民が何を思うかは考えたのだろうか。大隈重信の立憲改進党、板垣退助の立憲自由党、戦後の立憲政友会などなど やたら古めかしく時代錯誤的な印象を持つのは私だけだろうか。どうにも 新鮮さや未来を感じない。過去に引きずられた表現というイメージがしてしまう。「希望の党」も斬新さには程遠いが 立憲民主党よりはましな気がしてきた。

政治家のあまりにもひどいコミュニケーション能力に唖然としていた今日 カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞の発表を耳にした。その受賞理由がすばらしい。選考委員が「世界とつながっているという幻想の下に隠された闇(深淵)(the abyss beneath our illusory sense of connection with the world)をあらわにした」のが授賞理由だと言ったのだ。・・・すごい。選考委員の発表する授賞理由そのものが文学になっているではないか。「きずな」と言われれば誰も反対できないような今の時代に きずなという幻想の下に隠された深淵をあらわにしたというのだ。この選考理由一言で読みたいと思った人が何万人もいるはずだ。カズオ・イシグロを読んだことのない私もすぐに三冊注文したのだから。

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