過去のひと言


2012年9月その2 原発ゼロ(2/2)

前回、「あと20年かけて、今30%近くある原発の割合をゼロにする」など、民間企業であれば低すぎるとでも言える目標設定だといった。

今、ニューヨークではエンパイアステートビルの省エネ大改装が進んでいる。通常の改装に加え、冷暖房設備、照明設備、窓ガラスなどすべてを交換することにより、エネルギー消費量を38%削減できるという。このエネルギー削減効果は年間4.4百万ドル。5億ドルの通常改装費に加え、省エネ追加工事費用に20百万ドルがかかるという話なので、エネルギーコストだけを考えると、5年で追加工事の元がとれるということになる。さらに、改装に加え、こうしたエコ・イメージが追い風となり、家賃は大幅アップしたそうだ。

また、神奈川の一軒家に住む私の友人は、一部、太陽電池を設置し、照明をすべてLEDに切り替えたところ、電力消費が3割程度減少したという。こうしてみると、3割程度のエネルギー削減は不可能なものとは思えない。

ここで思い出したのが、1970年のマスキー法だ。1970年に米国で法案成立したもので、「1975/76年以降の自動車の排気ガスを1970-71年型の1/10にすることを義務付ける。達成できない自動車は販売を認めない」というものだ。5年の期限付きで排ガスを1/10にするなど、当時の自動車業界では達成不可能と言われた非常識な法案だった。

この規制を最初にクリアしたのがホンダのCVCCエンジンだ。なんと、1972年にあっさりとクリアしてしまった。また、翌年にはマツダもクリアしている。しかしながら、米国メーカーの強い反対にあい、マスキー法自体は実施を待たずに1974年に廃案になった。米国本土における排ガス規制がこの基準に達したのは1995年のことだ。

一方、日本では、このマスキー法を下敷きに国内の排ガス規制が強化され、1978年度には、一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物、すべての項目において、マスキー法が掲げた目標値を完全に上回ることになった。このマスキー法挑戦をきっかけに、日本車の技術能力は急上昇し、日本車の技術評価は様変わりした。わずか数年の出来事である。今、日本は排ガス規制がもっとも厳しい国であり、当然、排ガス技術がもっともすぐれた国である。

今、日本の原発に占める割合は30%弱。30%エネルギー消費を効率化すれば済む話だ。どうしてこれが不可能と言えるのだろうか。マスキー法にみるまでもなく、これはチャンスだ。大きなチャンスだ。がんばろう日本!

2012年9月 原発ゼロ(1/2)

原発に関する政府の意見聴取会が終わった。参加者を、立場の違いに応じてグループ化し、意見を聴取しようというものだ。ご存じのように、グループ化は、2030年までにあるべき原発の割合の支持(0%、15%、20~25%)により、3つに分類している。

原発反対者は、当然、将来的には原発ゼロを主張する。一方で、原発擁護者は、原発ゼロは非現実的で、そんなことをしたら経済的に大混乱が起きると主張する。・・・何かおかしい。これって議論がかみ合っていないのではないだろうか。つまり、原発反対者は2030年の将来像として原発ゼロを主張し、原発擁護者は手段としての困難性を強調する。一方が目標を論じ、一方が手段を論じている。これでは平行線になるのは当然だ。

戦略を論じる場合、もっとも重要なのは、まず目標を具体的に設定することだ。手段をどうするかは目標が定まった後に論じる話だ。目標が定まらないのに目標達成の手段を論じることはできない。もちろん、手段の困難さによっては、目標達成の道のり、あるいは、設定目標そのものを修正することもあり得るだろう。しかし、それでもスタートポイントは、目指すべき目標だ。これは、経営戦略でも産業施策でも国家政策でも同じである。

さて、ひとまず手段のことは忘れ、単純に追及すべき目標はどうあるべきかという観点で原発を考えるならば、当然のことながら、原発関連の仕事に従事している人を除けば、少なくとも日本人ならば百パーセント、原発はゼロにすべきだと答えるはずだ。福島原発の事故と現状、さらには、燃料廃棄物の処分法や処分地すら決まっていない状況の中で、原発があった方がよいなどと考える人がわずか一人でもいるとは考えられない。

問題は、2030年に原発割合をゼロにするという前提に立って、「その目標を実現するための方法論・手段はどうあるべきか」になるべきだ。そこで初めて、電力コストの問題、電力安定供給の問題などの議論が具体的なものになる。状況によっては、2030年にゼロが2040年にゼロに修正されるかもしれない。

ちょっと横道にそれるが、この意見聴取会の企画で評価したいのは、「2030年」という具体的な年度と、「ゼロ/15%/20~25%」という具体的な数値の設定だ。そもそも、なぜ「2030年」という年度が設定されたかは不明だが、おそらくは、現実性のある年度として企画者の念頭にあったに違いない。これを企画した人は、明確に頭の中に、「2030年に原発ゼロは不可能ではない目標設定だ」と考えたに違いない。

今、原発の割合は30%弱。あと20年弱かけてこれをゼロにする。・・・経営コンサルタントである私に言わせれば、民間企業であれば、低すぎるくらいの目標だ。なぜこれができないと言い切れるのか、その理由を探す方が難しいのではなかろうか。(次回に続く)

2012年8月その2 お墓考(2/2)

先に、樹木葬に関連し、米国の墓事情を考えてみた。それでは、米国より土地の狭いヨーロッパではどうなっているのだろうか。

ネットで調べたところ、イギリスでは驚くことに70%が火葬だという。もっと驚いたのは、土葬の場合、死後70年経ち無縁墓になった墓はいったん掘り起こして、深い場所に埋めなおし、新しい墓を建ててよいという法律ができたという。墓地の二重構造である。つまり、イギリスでも墓地不足はかなり深刻であり、かつ、無縁墓が多いのだ。火葬の場合、そのあと遺灰はどうなるのかはいろいろのようだ。自宅に持ち帰り、気に入った壺に入れて保管する人も少なくないらしい。空から遺灰を撒くというビジネスもある。もちろん墓地に墓石を建てて、その下に撒いてもよいし、墓地に共同で遺灰を撒く場所もあるという。

フランスの場合もイギリスに似ている。ただし、火葬の割合が高まってはいるが、イギリスほどではなく、火葬比率は、墓地不足のパリで40%、フランス全体では30%を切る程度らしい。ほぼ米国と同じ程度だ。ただし、土葬の多いフランスでは、米国と異なり、墓が地下室のようになっており、棺を2つ以上納められるようになっているのが普通だという。大きい墓だと、その下に8つの棺が入るような構造になっているものもあるらしい。イギリスの法律を先取りした重層構造だ。ちなみに、火葬の場合、フランスでは、約7割の人が遺灰を自宅に持ち帰り、そのまま保管したり、好きなところに撒くらしい。墓地に収めるのは3割以下だという。

気になっていた方も多いかもしれないが、欧米では遺灰と言い、日本では遺骨という。私は、同じ火葬でありながら、この骨と灰の違いがその後の方法に大きな影響を及ぼしている気がしてならない。日本の火葬の場合、火葬の後に残るのは遺骨であり、骨壺にいれるのは焼け残った骨である。灰ではない。以前、葬儀場の人にすべて灰になるまで焼くことはできないのかと聞いたところ、ここでは無理だといわれてしまった。撒きたいのならば、トンカチで骨を砕かないとだめだと言われた。日本で海に散骨する人は、骨のまま撒いているのだろうか、それとも骨をわざわざ砕いたうえで撒いているのだろうか。いずれにせよ、これは抵抗感が大きい。

欧米の場合には、焼く温度がかなり高温であることに加え、灰になりやすい薬品を混ぜて焼くらしい。・・・どう考えても、骨では人に近すぎる。灰ならば土に近い。樹木葬がこれだけ人気を浴びているのだから、ぜひ焼き場の人に提案したい。私の死体は薬品を混ぜても何を混ぜてもよいので、すべてを灰にしていただけないだろうか。割増料金OKです。

2012年8月 お墓考(1/2)

先日テレビで桜の下に遺骨を埋める樹木葬の特集をしていた。かなり人気があるらしい。20~30万円程度で済むらしいが、人気の最大の原因はお金ではない。死ぬ者としてみれば、子孫に墓守の負担をかけなくて済む、自分の気に入った場所で土に戻る方が自然という考えだ。樹木葬は、今迄NPOや一部のお寺などがやっていたが、都立霊園でも新たに導入し募集を始めたという。都立霊園とすれば、墓地不足解消の切り札になる。

樹木葬の面白い点は、墓問題を、どのように墓を守っていくかではなくて、そもそもお墓は必要なのかという視点に立っている点だ。正直、今のような核家族化・少子化の時代では、お墓を一族で守るなど、よほどのお金持ちや名家を除いてとても難しい。だったら、お墓という発想を無くしてしまうのも一つのやり方だと提案しているのだ。この発想は海への散骨と同じだが、骨を撒くという考えに抵抗感があるためか、手法としては例外でしかなかった。樹木葬は、これを一つの方法論として一 般化することに成功した。実にユニークだと思う。

米国人と国際結婚した娘に聞いたところ、アメリカ人の夫やその親が墓参りしたという話など 聞いたことがないという。どうも米国人は墓参りなどしないらしい。祖父母あたりになると墓の場所さえ定かでなくなる。キリスト教では、死ねば魂は天国に行くのであって、お墓に眠っているのではないのだから、墓参りの必要もないといえばないのだろう。米国人にとって、墓参りに行くとすれば、それは死者の在りし日を偲ぶのが目的であって、日本の弔いの気持ちとはどうも違うようだ。米国の場合、お墓は個人のモニュメントのようなものらしい。

しかし、それだと、いつかは皆、無縁墓になるし、そもそもお墓の意味が余りない。実際に無縁墓は多いらしいが、幾ら土地の広い米国とはいえ、これではいつかは 墓地不足になる。ということで、今では米国でも火葬が30%程度になっており、アパート型の共同霊園的な納骨堂も登場しているし、遺灰を撒いたり、しゃれ た壺に入れて自宅に置いておき墓は立てないという人も増えているらしい。

土地が狭いにもかかわらず宗教心の強い日本、しかし急速に進みつつある核家族化と個人主義・・・よく考えてみると、この日本の置かれたユニークな状況が世界の見本になるような墓地スタイルを生むのではないかという気がする。(次回に続く)

2012年7月その2 クレジットヒストリ

今、国際結婚し、ホノルルに住んでいる次女が孫を連れて数年ぶりの里帰り中だ。その次女とクレジットカードの話になった。彼女は米国のクレジットカードを2枚持っているのだが、この2枚とも意図的に時々使用するようにしなければならないという。理由は高いクレジットヒストリを維持するためらしい。クレジットカードを持つ理由は便利だという理由もあるが、むしろ、この信用力を高めておきたいという理由が大きいという。

米国では、クレジットカードの支払記録やローンなどの返済記録は“クレジットヒストリ”として記録されている。この記録は信用を数値化したもので、例えばあなたのクレジットヒストリは600ポイントなどとなる。もちろん、自分のヒストリはいつでもチェック可能だ。また、借金するときには当然だが、アパートを借りる時や就職のときなどに調べられ るという。実際に、次女の場合、アパートを引っ越しするときに大家さんから調べられたといっていた。例えば、ある人気のアパートに引っ越し希望者が複数い た場合、このクレジットヒストリがものを言う。

クレジットヒストリは借金の 返済記録なので、借金が少なすぎると、つまり、あまりクレジットカードを使わないと信用力に反映されなくてポイントが低くなるし、クレジットカードの返済方法が一括返済でないと低くなるし、一枚のカードだけしか使用しなくても低くなるらしい。もちろん、クレジットカードを持ったことのない人の場合、ヒストリがゼロになってしまう、つまり、信用力ゼロになってしまうので、銀行でローンもできなくなってしまう。一般人の米国生活ではここら辺の仕組みをしっかり と理解しておくことが肝要になるらしい。そうしないと、いざローンで家を購入する場合などに困った状態になってしまう。

借金大国、アメリカならではの仕組みに聞こえるが、このクレジットヒストリに誤りが発生することはないのだろうか。私自身、昔、米国に半年ほど住んでいた時に、米国で発行したアメックス・カードを持っていたことがある。日本に帰国した後のこと、そのカードに関し、身に覚えのない支払い請求が来てえらい目にあったことがある。この時点、私のクレジットヒストリはおそらくマイナスだったことだろう。

雑誌に、ある米国人がクレ ジットカードで購入した商品をキャンセルした時の出来事が載っていた。キャンセルそのものには問題がなく、カード会社からの支払い請求もなかったのだが、 後日、債権取り立て業者からその支払いについて執拗な取り立てを受けたという。カード会社の手違いでクレジットカードの未払い記録のみが残ったらしいのだ。しかし、その債権は、他の未回収債権とごっちゃにして取り立て会社に売却され、さらに、何度も売却が繰り返されているので、修正が効かないという。ひどい話だ。

日本でも遠からず国民皆背番号制が導入されると、こういうクレジットヒストリ的なものが導入されることになるのだろうか。このような仕組みを作るときには、ぜひ、ミスがあり得ることを前提にして作っていただきたいものだ、原発と同様に。

2012年7月 同級生の死

私は今年末に60歳を迎えるのだが、自分の人生と無関係に色々な仕組みが60歳で一区切りを迎える。今まで納めてきた国民年金や国民年金基金の徴収が終わりを迎え、(制度に変わりがなければ)厚生年金比例報酬部分や厚生年金基金の受給が始まる。

そして、なぜか60歳が区切りとなっている生命保険も徴収が終わり、死亡時の保険支払いはがくっと減額される。60歳 を過ぎると、死んだ時にもらえる保険はこんなに減ってしまうのか・・・そう考えると、何だか価値がぐっと下がったみたいで気分はよろしくない。以前、保険 は貯蓄ですからと言っていた保険のおばちゃんは、いつの間にか、保険は“保険”ですからという説明に変わっている。おばちゃんはしきりに保険の継続を勧め るのだが、妻と話した結果、掛け捨てで十分ではないか、継続はやめようということになった。その話の最中、妻は、しきりに生命保険会社はぼろ儲けだと怒っ ていた。

ちょうどその時、大学同級生急逝の連絡があった。これによって私の生命保険の決断に変わりはなかったが、思わず同級生の死亡確率の高さが気になった。私が卒業した東京大学工学部建築学科は定員60名、当時全員が男性だった。その内、今日までに60歳を迎えずに6名が死亡している。これでは生命保険会社がぼろ儲けとは言えない。そのことを妻に言うと、同級生が普通ではないのだと言う。

確かにそうかもしれない。実は、亡くなった6名の同級生の内、3名は30歳を迎えずして自殺している。60名のうち3名である。また、1名は狂牛病で半年間入院の後に死亡した。まさかと思い、いろいろな人にあたったがどうやら狂牛病は本当らしい。もちろん、このことは一切公表されていない。死亡時、若くして某国立大学教授職にあった彼は、数年間、ロンドンに駐在経験があった。もう1名 は喉頭癌による壮絶死。国家公務員キャリア組として霞ヶ関で働いていた彼は、数年間、職場と病院を行き来し、癌と闘いぬいた挙句、壮絶な死を迎えた。当 時、告別式でお父様が話してくれた闘病生活は言葉を失うほどにすさまじいものだった。そして、今回、亡くなった同級生は脳溢血。突然死だった。

こうしてみると、歳をとるにつれ、ようやく死が自然で共感できるものになってきている。身近なものになってきている。これまでの友人の死は、あまりに驚愕で 強烈で、その事実に憤りを覚えるものばかりだった。しかし脳溢血ならば、あり得る・・・私にも。私個人的にはたばこは吸わないし、血圧も高くないので確率 は低そうだが、しかし、あり得る。心臓病ならもっとあり得る。

先日、ベストセラー、“大往生したけりゃ医療とかかわるな”(中村仁一、幻冬舎)を読んだ。実におもしろい。私は決めた。60歳 になったら、万が一の時に延命処置はするなという事前指示書を書こう。実は、すでに臓器提供カードに「延命処置はするな」とメモ書きしているのだが、延命 処置の内容をもっと具体的に書く必要があるらしい。また、毎年、私自身の死亡通知の原稿を書いておこうと思う。「・・月・・日、私はあの世に旅立ちまし た。生前は一方ならぬご厚情を頂きありがとうございました」という感じだ。しかし、これだけいろいろの人の世話になっていると、ハガキ一枚に書ききれるか どうかが心配だ。

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