過去のひと言


2013年6月その2 参院と憲法改正

昨日(6月26日)、参院本会議で首相への問責決議が可決され、重要4法案が廃案となった。あいた口がふさがらない。過去数年、ねじれ国会の弊害が幾度となく繰り返され、決められない政治が批判されている最中の出来事である。昨日こそは、こんな参議院、百害あって一利なし、不要どころか存在そのものが害悪だと痛感した。

廃案になった「電気事業法の改正案」は発送電分離を目指し、電力会社の独占状況に風穴をあけようという目玉中の目玉の法案だったはずだ。また、ソマリア海の海賊に対処するために、小銃を持った民間警備員の原油タンカーなどへの乗船を認めようという海賊多発海域船舶警備特別措置法案もお蔵入りとなった。いったい誰が日本のエネルギーを守るのだろうか。したり顔で国会内を闊歩していた福島社民党代表はいったい何を考えているのだろうか。確かに、廃案になった、生活保護法改正案と生活困窮者自立支援法案には、生活保護申請の敷居が高くなりすぎるという批判も強かった。しかし結果として、予算案に盛り込まれていた生活保護費のカットだけが実施されることになった。

正直な話、私は選挙権を持って以来、過去一度も自民党には投票したことがない。前回の衆院選挙ですら、ふがいない民主党に激しい憤りを感じながらも、自民党には投票しなかった。私は生粋のリベラル派を自認している。しかし、今度と言う今度は、次回の参院選挙では自民党に一票を投じようという気になっている。もちろん、アベノミクスを評価しているわけではないし、自民党の施策に共鳴しているからでもない。

最大の理由は憲法改正への期待である。私の言っているのは第9条(戦争放棄)の改正ではない。第42条(両院制の規定)の改正だ。第42条では二院制が規定され、参院に対し大きな権力が付与されている。例えば、法案においては、参院で否決されれば、衆院で3分の2以上の多数がなければ再可決されない。自民党独占の昔ならばこれでよかったが、二大政党/複数政党を基本にする限り、これでは政治は動かない。つまり、第42条は「ねじれ国会が嫌なら、一党支配を選べ」と言っているのに等しい。複数政党が切磋琢磨する状況を作り出そうと思うならば、憲法第42条改正しかないと思う。

ちなみに、今自民党が主張しているのは、憲法第96条の改正だ。憲法第96条は、憲法の改正に必要な要件を定めたもので、「憲法改正には、各議員総数の2/3以上の賛成で、かつ、国民投票の過半数の賛成が必要だ」と定めている。自民党の第96条改正の主張の裏にあるのは、第9条の改正かもしれないが、それでも私は改正を支持したい。少なくとも国民投票の機会がある。参院議員の投票など、日本にとって何の役にも立たない。

2013年6月 夢に限界はない

三浦雄一郎さんが80歳にしてエベレスト登頂に成功した。本当に驚きでしかない。

エベレストとは比べ物にならないが、個人的には富士山には何度か登ったことがある。富士山だって馬鹿にはできない。このクラスでも高山病にかかる人が何人もいるし、頂上まで登れば実際に空気の薄さを感じる。正直、80歳で富士山の頂上に登るのもちょっとしたニュースだと思う。しかし、80歳で世界最高峰8,848mの世界だ。とても信じられない。

帰国後、三浦さんに対するメディアでの取材で、お決まりのように出された質問が、「次の計画は?」だった。確か、某テレビで「8,000mからスキーで滑降したい」というようなことを話していたと思うが、その後にサラリと口にした次の言葉は印象的だった。「夢には限界がないからね。」

実際、脳科学的に見て、「夢を持つ」という行為に年齢はあまり関係ないらしい。脳科学者、澤口俊之氏によれば、人間の脳は20歳代半ばで成長を終えるが、未来記憶(将来の目的や計画、状態などに関する記憶)の能力は、脳の成長が止まって以降も衰えないという。「もうこれでいい」と現状満足するのではなく、「成長したい」という意欲を持ちさえすれば、70~90歳になっても夢を持つことはできるという。

最近、60過ぎの友人と話をする時に、「将来、何かやりたいと思っていることがあるか」とよく聞いてみたりする。もちろん、自分の参考にするためだ。この歳になると、某生命保険会社のCMのように「将来の夢は何か」と直接的に聞くのも気恥ずかしい。そこで、ちょっと言葉を変えて尋ねてみる。しかし、中身は一緒だ。この質問に対して、数人に1人くらいの割合で、具体的な答えが返ってくる。私の感覚では、意外と多くの中高年が具体的な夢を持っている。しかも、この歳で具体的な夢を持っていると即答できる人は、押しなべてその夢実現に向かって既に準備を始めている。「大学で教えてみたい」と答えた友人は具体的に講義を前提にした資料集めを始めていたし、「製品デザインをやりたい」と答えた友人は空いた時間を利用して、米国のデザイン学校に短期留学する予定だという。ポイントは、60過ぎの人たちが持つ夢は、純粋に損得勘定なしの夢だという点だ。

こうして周りを観察していると、高齢化社会をリードするのは、夢を持ち、夢の実現に向かって、損得勘定なしで行動する中高年のような気がしてきた。今、中高年観察が面白い。

2013年5月その2 草津よいとこ(2/2)

前回は、草津温泉の泉質のすばらしさと、酸性温泉の効用について述べた。今回は、私の好きな世田谷のアルカリ温泉がテーマだ。

私の知る限り、世田谷から神奈川西地区(川崎市麻生区あたり)にかけての温泉は、黒湯で弱アルカリ性だ。チョコレート色のお湯で、まったりとしているのが特徴。なぜ黒いかというと、その元は地層中に蓄積された海藻などの海洋植物に由来すると言う。海藻などの有機物が腐食し、地層のミネラルを吸収して黒くなったという。例えば、世田谷の温泉の成分表をよく見ると、非解離成分の中に“腐植質”という項目があり、それが何ミリグラム含まれているかが表示されている。海藻とミネラルが混ざった成分がたっぷりとは、これはそそられる。

前回、草津温泉はpH2程度の酸性で、殺菌力が抜群、皮膚病に効果ありと書いた。世田谷地区の温泉は腐植質、つまり植物に起因するので、弱アルカリ性だ。例えば、“そしがや温泉”ではpH8.3ていど。しかし、皮膚は弱酸性に保つのが原則なのに、アルカリ性の温泉で良いのだろうか。

結論から言えば、アルカリ性のお湯は、弱酸性の皮脂を溶かし角質を除去させるために、肌がすべすべになると言う。要は、アルカリ性の石鹸と同じ理屈だ。そのために、アルカリ温泉はよく“美肌の湯・美人の湯”と呼ばれる。逆に言えば、“美肌の湯・美人の湯”とうたわれていえば、それはアルカリ温泉と言うことだ。ただし、これを美肌効果と言ってよいのかどうかは議論があるとのこと。なお、アルカリ性が強すぎると肌がカサカサになるので要注意。男性でも湯上り後の美容液と保湿液は不可欠でしょう。

要約すれば、pH観点で言えば、酸性温泉とは肌表面の酸性効果を高める“殺菌クリーム”みたいなもののようだ。一方、アルカリ温泉とは古い皮脂と角質を中和して取り去る“洗顔石鹸”みたいなものだ。とすれば、ベストは、まずアルカリ温泉に入り、その後に、酸性温泉に入ることだ。

ちなみに、インターネット情報によると、強酸性温泉のトップは、湯治で有名な秋田玉川温泉で、何と、pH1.0。強アルカリ温泉のトップは白馬八方温泉(長野)で、pH11.1。こんなにも違いがあるのは驚き。暇になったら、pH値を参考に、温泉巡りをやってみるのもよいかもしれない。どこかツアー会社で、 “アルカリ温泉と酸性温泉を巡るバスパック”みたいなものはないだろうか。

2013年5月 草津よいとこ・・・(1/2)

草津温泉に行ってきた。実は、人生初めての草津経験だ。江戸時代、明治時代、そして、現在までも、ずっと温泉総合ランク、かつ、泉質ランクナンバーワンの座をキープしている温泉なので、ともかく一度行かねばと思っていた。

結論から言えば、まったく期待を裏切らない素晴らしい泉質だった。今までの経験では、数年前に行った知床・ウトロなど北海道の温泉が一番と思っていたが、草津温泉の泉質は恐らくそれらを上回る。私の正直な感想を言えば、草津温泉は観光地と言うよりも純粋な温泉地で、温泉以外にそれほど見るものはない。食べ物もたいした物はないし、たいした名所もない。しかし、温泉は素晴らしい。この温泉に入る目的だけで、ぜひもう一度行きたいと心から思っている。

草津温泉の泉質は酸性の硫黄泉で、湯畑では鼻をつく硫黄臭がすごい。PHが2程度の強い酸性だという。そもそも健康な人間の皮膚は、脂肪酸などで作られた皮脂膜(pH4.5~6.0)で覆われることにより弱酸性に保たれている。これにより細菌の繁殖から皮膚を守ろうとしている。逆に言えば、細菌から肌を守るためには、この酸性状態を維持する必要がある。というわけで、酸性の温泉は皮膚病に良いと言われている。草津温泉に通うと水虫はすぐに治るらしい。

蛇足だが、基本的には、体の表面は酸性に、内部は、腸を除いて、アルカリ性に保つというのが健康の原則と言われている。したがって、ふろ上がりのパウダーは酸性だし、食べ物はアルカリ性がよいと言う。ちなみに、血液はそもそも弱アルカリ性だ。ただし、食品の酸性・アルカリ性というのは、体内で消化された後の話しなので誤解ないように。例えば、酢そのものは酸性だが、体内でアルカリ性になる。したがって、酢を飲むと血液のアルカリ性が保たれ、血がさらさらになる。

ちょっと横道にそれたが、それじゃ、アルカリ温泉はだめかというと、そういう訳でもない。実は、私は地元世田谷にある温泉施設にはよく通うのだが、この世田谷の温泉もなかなかによい。ヌルリ感のあるチョコレート色の黒湯で、弱アルカリ性が特徴だ。(申し訳ないが、このアルカリ温泉の話は次回にさせてください。温泉好きなので話がつきません。)

2013年4月 その2 新年度の始まり(2/2)

前回は、暦と年度がなぜ違うかという話だった。それでは、日本の会計年度がなぜ4月開始かと言うと、理由は単純。明治時代に当時の大国、イギリスを真似ただけの話だ。ちなみに、イギリスは今も会計年度は日本と同じ4月開始。カナダ、インド、デンマークなども4月。米国は10月。ギリシャ、スウェーデン、オーストラリアなどは7月。暦と年度が同じ1月開始なのは、韓国、フランス、ドイツ、ロシア、中国など。

この各国の会計年度を見て、私は考えた。・・・要は、会計年度などどうでもよいのではないか。会計年度そのものに意味がなくなってきているのではないか。今や、一年ごとにものを考える時代ではなく、もっと早いスピードで考える時代になっているのではないか。そういう視点で各国の会計年度をよく見ればすぐにお分かりの通り、すべて、四半期(3か月)単位となっている。つまり、1月始まり、4月始まり、7月始まり、10月始まり・・・今や、一年単位ではなく、3か月単位でものを考えるのが常識、それがグローバル流なのだ。

ちなみに、皆さんは米国の会計年度が10月始まりなのをご存じだっただろうか。私はつい最近知ったばかりだ。でもなぜ10月なのか?・・・じつは、10月開始になったのは1976年、割と最近の出来事なのだ。それまでは7月が会計年度のスタートだった。変更になった理由は、7月だと期間が短すぎて議会の合意が得られないので、四半期ずらそうということだった。米国の場合、個人の税申告は暦通り(1~12月)だし、企業も暦通り(1~12月)が多い。要は、政治がらみの話であり、10月であることにそれほどの意味はないのだ。重要なのは四半期なのだ。

最近、東大の秋入学が話題になっている。世界標準に合わせようと言いうことだが、世界に合わせると今度は国内で不都合がでる。もちろん、幼稚園から大学まですべて9月スタートにすればよいのだが、私に言わせれば、学校年度という考えがそもそも古い。四半期が望ましいが、少なくとも、前期・後期の半期制度にすればよい。つまり、4月入学と9/10月入学の選択制度にするのだ。もちろん、カリキュラムの構成に頭を使う必要はあるが、こうすれば、多少の非効率さもカバーできる。問題は春入学か秋入学かではなく、「年度」発想で凝り固まっている学校経営者の頭の中のような気がする。

ちなみに、私の卒業したペンシルベニア大学のビジネススクール(大学院)では、9月開始がメインだが、1~2割は1月入学生だった。カリキュラムは春/夏/秋/冬の四半期制。もちろん、卒業は単位さえ取ればいつでも大丈夫。入学式はなしで卒業式は年に一回。見習うべきは9月入学ではなく、この柔軟性だと思うのだが、如何だろうか。日本的に言えば、やはり、寒さも和らぎ、虫や動物が冬眠から目覚め、桜が咲く時節こそが、「新しい始まり」に相応しい。東大の学長さま。どうか、この「始まり」をぶち壊さないで頂きたい。

2013年4月 新年度の始まり(1/2)

新しい年度が始まる・・・と言うと、やはり日本の場合、4月1日だろう。しかし、なぜ暦と年度は異なるのだろう。会計年度も1月1日スタートにしてしまえば簡単に思えるのだが・・・。

考えてみると、政府の予算は4月スタートだが、我々が支払う税金の計算は、個人の場合、暦と同じになっている。つまり、「税支払いの対象期間=暦(1~12月)」(英語でTax Year)であり、「税を使う期間=会計年度(4~3月)」(英語でFiscal Year)となっている。どうやら、暦と年度が異なるのはこの辺に原因があるらしい。昔をさかのぼれば、税を支払う期間の締めとは収穫終了の時期だ。つまり、収穫がある程度終わって、収入が確定した後、予算を考えるのにある程度時間が必要という話だ。

発想が若干、原始的に聞こえるけれども、理にかなっているとは言える。この発想は、実際の農作物では実に明確だ。皆さんは、「砂糖年度」(10月開始)とか「いも年度」(9月開始)とか「生糸年度」(6月開始)などというのを聞いたことがあるだろうか。収穫時期を反映し、全部年度が違うのだ。これらの年度はれっきとした法律で決まっていて、たとえば、砂糖年度の場合、「砂糖およびでん粉の価格調整に関する法律」で、10~9月が砂糖年度だと定められている。砂糖の統計はこの年度を基準にしている。具体的には、「2010年砂糖年度における砂糖の供給量は209万トンだった」などと表現するのだ。ちなみに、この考え方は日本だけではなく、米国の場合、「小麦年度」は6月開始、「トウモロコシ年度」は9月開始となっている。

しかし、「なるほど」と言うのは早すぎる。これは表向きの話、というか、ちょっと一時代前の話のような気がする。情報化時代の現代、収穫見込み、税収予測など、実際に終わってみないと分からないということはないだろう。つまり、一年ごとに、収穫が終わって、そして次の年の予算を考えるなど、20年前の話に聞こえる。今はつねに変化が起きている時代だ。のんびりと一年ごとにものを考える時代ではない。

税収期間と予算期間をずらすというのには、もう一つの有力説がある。暦の場合、どこの国であろうと、一年の終わりや始まりにはいろいろな行事がある。やれ大晦日、やれ正月などなど。こんな時期に年度末を迎えるとなれば、税金の計算をする役人はまったく休みを取れなくなってしまう。やはりピークはずらした方がよいというのがいわゆる役人側の切なる意向なのだ。年度末の忙しさは、実際に役人として働いたことのない人にはとても理解できないほどらしい。

一方で、実際には、暦と会計年度が同じ国もあるし、意外と多いのだ。たとえば、韓国、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、ロシア、中国など。つまり、やれば出来るのだ。(次回に続く)

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