過去のひと言
2017年1月 チェ君の話
明けましておめでとうございます。さて 今日は季節感のまったくない話をひとつ。昨年の私個人のビッグニュースの上位にランクされる話です。
今から40年近く前 私が米国ビジネススクールに留学していた時の事 韓国人留学生チェ君と親しくなった。彼の実家は韓国でナンバーワンの電池(サンパワー)を製造する韓国証券市場上場の化学メーカー。オーナー企業の経営者だった。名門ではあるけれども財閥間の競争に立ち遅れた小財閥というところだろうか。彼はそのファミリーの長男。父親は長男を米国ビジネススクールに留学させる一方 次男はドイツの大学院に留学させていた。典型的なエリート一族である。
米国ビジネススクール卒業から10年近く経った頃 P&Gが韓国に合弁会社を立ち上げるという話しが日経新聞に載った。よく読むとその合弁の相手がチェ君の会社だった。P&Gは合弁候補の中でもっとも小さな相手を選択したとあったが 後でP&Gの方に聞くと 跡取り経営者であるチェ君の人柄と能力を高く評価した結果だったという。すぐにチェ君におめでとうの連絡をすると 折り返し ソウルに遊びに来ないかとのメッセージ付きで 大韓航空の東京・ソウル間ファーストクラスのオープンチケットが送られてきた。(その後 チェ君の社長時代 自社立て直しのために この合弁企業の持ち分はP&Gにすべて売却。P&G韓国は今はP&G100%となっている。)
さて そのチェ君ともここ数年ごぶさたしていた。連絡をとろうとするとメールがつながらない。会社のHPを見るとどうも雰囲気が違うし 彼の名前はどこにもみあたらない。電池事業は既にデュラセルに売却されていた。ようやく ビジネススクールの同窓会ネットワークに彼のメールアドレスを発見したので近況伺いの連絡をしてみた。すぐに返事がもどってきた。なんと彼はソウルではなくニューヨークにいた。彼曰く
電池を始めとした会社の事業はその多くがミッド・テクノロジー。ハイテクならまだしも ミッドテクの将来は難しい。いろいろ考えた末に 会社を事業ごとに分割し 一つ一つ売り払ったという。その後 家族全員でニューヨークに移住し 今はニューヨークでファミリー資産のファンド運用をしているという。
なるほど 確かに頭の中では理解できるし それがもっとも妥当な選択だったと言えるかもしれない。しかし 彼は ファミリーという絆を大切にする生粋の韓国人であり しかも そのファミリーの長男なのだ。ミッドテクとはいえども韓国最大電池メーカー企業のトップだったのだ。その彼がファミリービジネスのすべてを売却し しかも 韓国と言う祖国を離れ 60歳にしてニューヨークに移住したというのだ。ものすごい苦渋の決断であり 親戚一族から非難の嵐だったのではないかと思う。
ファミリービジネスを捨て 祖国を離れ 60歳にしてゼロに立ち戻った勇気・・・すごい!たとえ私にお金があったとしても 日本を離れ しかも激動のニューヨークに移り住む勇気があるだろうか?・・・ニューヨークでなく ハワイだったらありかもしれないが。
(昨年11月に 新著「入門 考える技術・書く技術【スライド編】」を上梓しました。ご参照ください。)
2017年2月 サヨナラ JAL
いよいよJAL(日本航空)が私から遠のいていく。私のように 時間的にもお金的にも若干の余裕の出てきた中高年というのはJALが今後力を注ぐべき潜在顧客層のど真ん中にいると思っていたのだが どうやら違ったようだ。
今まで羽田発着だったホノルル便は今年4月からすべて成田発着となることが発表された。先月 突然の発表だった。普段 多くの広告メールを寄こす割に JALカード保有者であり 昨年夏に羽田・ホノルル便を利用したJAL顧客の私などには一片の連絡メールもない。まさに突然である。
JALに限ったわけではないが 羽田・ホノルル便は航空会社のドル箱だ。羽田発着便は成田発着便よりも若干割高なのだが それでもビジネスクラスは常に満杯といってよい状況だし エコノミーだっていつ乗ってもほぼ満員だ。この状況であれば 羽田が成田になろうがJALにとっては傷は少ない むしろリッチな企業顧客開拓のためにニューヨーク便を羽田発着にするほうが得策だと踏んだのだろうか?・・・しかし本当にそうだろうか。
もちろん ANAもハワイアン航空もホノルル便は羽田発着のままである。ハワイに娘家族があり 年に2回ハワイを訪問する私に限って言わせていただければ 今後よほどのことがない限り成田発のホノルル便に乗る気はない。つまり JALに乗ることはない。私は特殊ケース?いや 60歳以上の中高年ならば間違いなく私と同意見だろう。また 小さな子供をつれた家族旅行の方だって多くは私と同意見だと思う。少なくとも私にとって 今回の出来事はいよいよJAL離れの決め手になりそうだ。
言っておくが 私は20年以上前からJALカードの会員だし 妻も数年前に会員になっている。この会員カードだけのために年間何千円も支払っているお得意さんなのだ。JALが苦境にあったときも JAL支援の意識もあり 国内便はほとんどJALを使ってきたほどだ。
たかがホノルル便の羽田発着がなくなるだけで大げさなと思うかもしれない。しかし実は数年前にもこれに似たことがあった。私はセキュリティ上のことを考え クレジットカードはほとんど アメックスを使用している。会社の経費の立替えなどもアメックスを使用しているために その使用金額はかなりのものになる。というわけで 貯まったアメックスのポイントもかなりのものになっている。実は いつか暇になったらこのポイントを使って旅行でもしようかと思い 有料(年数千円)でJALのマイレージにポイント移行できるようにしていた。ところが 数年前 何の前触れもなしに JALが突然アメックスとの提携を破棄したのだ。もしかするとアメックスが破棄したのかもしれない。いずれにせよ いったい今まで私がポイント移行のために毎年支払ってきた費用はどうしてくれるのか?
当然の結果として 私はJALの代わりにANAのマイレージに移行できるようにした。そして これを機会に 今までJAL一辺倒だった私の国内旅行・出張は徐々にANAに乗る機会が増えていった。そういう私にとって今回のホノルル羽田発着便の廃止は最後通牒に等しい。どういう背景でこうなったのか知らないが どう見てもJALはホノルル便の羽田利用顧客層を軽視している。AMEX顧客層を軽視した過去の経験に懲りていないらしい。
2017年3月 ランドセル購入の教訓
私には5人の孫がいる。今春 2番目の孫が小学校に入る。小学校のランドセルはジジババが買うというしきたりに従い 2人の孫には私がランドセルをプレゼントした。二人の孫にプレゼントしたのは 子供のリクエストに従い 売れ筋ナンバーワン「天使のはね」ブランドのランドセルだ。約7万円。それまで知らなかったのだが ランドセルは通常は前年の夏頃に注文し 入学年の1月頃にお届けになる。つまり 在庫なしの受注生産だ。それで7万円・・・これは高い。
さて 2ヶ月ほど前 ハワイに住む次女から 2人の孫を連れて夏休み(6/7月)に一月半ほど里帰りをするという連絡があった。ハワイ生まれの上の孫(私の3番目の孫)は今年8月からアメリカの小学一年生になる。アメリカの場合 実際には小学校に併設するキンダーガーテンが小学校0年生に相当するので 感覚的には去年の夏からもう小学生みたいなものだ。新たに小学校入学と言う意識はなかったが 日本流に考えれば この孫も今年から小学校入学だ。
娘によると 里帰り中 自宅近くの区立の小学校に一ヶ月くらい通わせたいという話しである。最近の公立小学校ではこういう受け入れ制度が充実しているらしい。というわけで たとえ一ヶ月と言う間でも仲間外れにしたくはなかったので もう一つランドセルを買うはめになった。娘は 短い期間だし これ以降どうなるか分からないので一番安いものでよいという。というわけで 格安ランドセル探しをすることになった。
調べた結果 中国ブランドのランドセルであれば ネットで5千円くらいから売られている。アマゾンのランドセル・ベストセラー商品(5つ星評価)は 1万6千円する中国ブランドのものだった。日本製と比べれば格安ではある。ネット上でいろいろ調べた結果 結局 このアマゾン・ベストセラーのランドセルを購入することにした。もしかすると一ヶ月しか使わないかもしれないので 娘は5千円のもので十分だと言う。しかし そこは孫のため 私にとっては大盤ふるまいだ。
しかし配達されたそのベストセラーのランドセルを見て正直がっかりだった。日本製を見慣れた私の眼にはどうしても安っぽいビニール様のふち止め仕上げが気に入らない。安いとはいえ 1万数千円する商品なのだが・・・。妻はこれで十分ではないかと言ったのだが どうしても気に入らない。結局翌日 返品することにした。アマゾン・マーケットプレースの商品ならだめだったかもしれないがアマゾン直売商品だったので返品はOK。さすがアマゾン。
その後 ネットでいろいろ調べたが 結局 細かな仕上げは実物を見なければわからないと判断。もちろん 身近で実物を見られるのは 日本ブランド商品しかない。そこで日本ブランドの中の格安商品がないか調べることにした。上記ベストセラーの「天使のはね」(セイバン)の価格帯は59千~92千円。量販店ブランドならば安いだろうと思ったが イトーヨーカドー・ブランドは39千~74千円。イオン・ブランドは35千円~14万円。えっー スーパーでもこんなに高いのかと驚くばかりだ。結局 見つけたのはニトリ・ブランド。ここは、22千~39千円。結局 近くに開店したばかりのニトリを訪れ実物をチェックした結果 22千円のランドセルを購入することにした。実はこの商品は中国製らしい。しかし さすがニトリ。どこから見ても日本製と同じ仕上げ。さすがである。
教訓1:中国製が悪いのではない。大切なのはブランドの信用力である。
教訓2:ネットでは写真に注意。やはり細かい点は分かりにくい。返品可能かどうかをしっかりとチェックする必要がある。少しでも返品の可能性がある商品や高額商品は 必ず返品可能なサイトからしか購入してはいけない。アマゾンで購入するときはアマゾン・マーケットプレース商品ではなく アマゾン直販商品にした方がよい。
2017年4月 ウルトラマラソン挑戦
4月24日(日) チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン(100km)の部に出場した。一生に一度くらい100キロを走ってみようか これ以上歳をとると難しいかもしれないが今の内なら大丈夫だろうという気持ちだった。フルマラソンを必死のスピードで走るよりも100キロをゆっくり走る方が楽なのではないかという甘い気持ちも実はあった。完走できるかどうかは問題ではなく どのくらいのタイムで走れるだろうかを考えていた。
しかし大会一週間前 コースの高低状況と関門閉鎖時間をじっくりと調べ直し ネット情報を見ているうちに その甘い気持ちの半分は吹っ飛んでしまった。高低差を見れば かなりのアップダウンが幾つもありそうなのだ。富士山の麓だから当たり前といえば当たり前。しかし以前経験した 河口湖と西湖の湖畔を走る富士山マラソン(河口湖マラソン)の時には 河口湖と西湖をつなぐ一カ所を除いてアップダウンはなかった。この印象が頭の中に残っていたのだ。
交通規制などの関係上 フルマラソンの場合も同じだが 途中で何カ所かの関門があり 関門ごとに通過時刻が定められている。マラソンの場合 ゴール制限時間は6時間か6時間半で それに見合った関門閉鎖時間になっている。4時間前後で走る私にとって 関門ごとの閉鎖時間などまったく気にしたことはない。しかし 100キロマラソンはちがった。
富士五湖チャレンジの100キロマラソンでは ゴール制限時間は14時間で 途中6カ所に関門が儲けられている。問題は前半の関門制限時間の厳しさだ。最初の湖 山中湖からの戻り道はずっと登り坂になっている。にもかかわらず関門閉鎖時間が結構厳しい。歯が立たないというわけではなく 油断できない。結局 この前半40キロくらいでどれだけ脚力を維持できるかが勝負の分かれ目となる。
しかし あろうことか このしっかり走らなければならない区間で溝のブロック蓋の隙間に足をつっかけ転倒してしまった。交通規制がないので 歩道や溝のブロック蓋の上を走ることが多いのだ。30数キロの地点だった。幸いなことに足は大丈夫だったのでそのまま起き上がって走り続けることができた。周りを集団で走っていた人が皆心配し暖かく気遣ってくれた。・・・本当にありがとうございました。大事に至りませんでした。
河口湖を走り 西湖を超えた後 体力的に かつ精神的にもっともしんどかったのが最後の精進湖の端に設けられた第4関門(72.2キロ)の手前数キロの区間だった。この時点で 転倒した時にかばってついた右手の甲が紫色のグローブみたいに腫れ上がっていた。幸い指は動くので折れてはいないようだ。しかし右肩も強打していたため 痛くて思い切り腕を振れない。そんな中 ふと「何のために走っているのだろうか」という疑問が頭をよぎった。過去20回のフルマラソンでそんなことを思ったことなど一度もない。そして その関門の少し手前の長い下り坂を走りながら 帰りには この長い登り坂を上らねばならないのか と考えたところでほぼ切れた。この関門到達でリタイアしようと決意したのだ。気持ちの中で人生初めてのリタイア宣言だ。特にどこがものすごく痛いというのではないが ともかく体力の限界で走る気力が湧いてこない。
心の中でリタイア宣言した後 次の区間はどうなっているのかと念のためにポケットのメモをチェックした。・・・えっ何と次はサービス区間になっているではないか。次の区間約8.4キロを1時間半で走ればクリアできるのだ。これは出血大サービス。何度も間違っていないかチェックした。これだったら 登り坂はすべて歩いても大丈夫だ。これで生き返った。
制限時刻18:45のところ 18:25にゴール。もうすぐ夕暮れ うっすらと寒さを感じる時間になっていた。朝4時45分暗闇の中をスタートして13時間40分経っていた。久しぶりに自分を誉めてあげたいと思った。
2017年5月 テスラ快走
アメリカのEVメーカー テスラ(Tesla)の快進撃が続いている。4月には 時価総額で 日産 フォード GMを抜いた。2016年通期で7億7千万ドルの赤字にもかかわらずだ。
テスラの第一号車は2008年のロードスター。電気自動車初のスポーツカーとして評判を呼んだ。10数万ドルの車だったが あっという間に完売。とはいっても年間販売台数が数百台の話しで 全体として見ればニッチの世界 物好きなお金持ちの世界の話しと見られていた。しかも車体ベースはロータスのものだったので 完全に自前だったわけではない。
ところが その後 モデルS(セダン) そして モデルX(SUV) と次々に新モデルを発表していった。これらは航続距離で450~570キロ。一回の充電・給油で走る距離は燃費の悪い大型アメ車(ガソリン車)よりもよい。しかもオートパイロット機能付きで、ソフトは自動で更新される。帰納だけではなく モデルXのガルウィングのドアなど実にクールなスタイルだ。ただし 値段的に言えばすべて10万ドルクラスであり 庶民にはなかなか手が出る代物ではなかった。ニッチとは言わないまでも 多くの人にとってはまだ高値の花だった。
ところが 昨年3月 ついにモデル3の予約販売が始まった。テスラ始まって以来 3万5千ドルの大衆モデルである。予約販売と言っても あくまでも予約の受付であり 納車は早くても1年半後 今年の後半になるらしい。しかも この予約には1000ドル(日本では15万円)の予約金が必要になる。キャンセルの場合 全額返金の規定にはなっているものの 1千億円近い赤字を出している会社のクルマで しかも1年半後の納車である。
実はこれが大人気で あっという間に40万人近い予約が集まったという。予約金だけで4億ドルということになる。この結果を見て日本の自動車メーカーはようやく「何かが違う」ということに気づいたらしい。
テスラの創立者は イーロン・マスク。ちなみに 彼はトランプ大統領と同じく ペンシルベニア大学ウォートンスクールで学士号を取得している。まったくの余談だが 私もこのウォートンスクールで修士を取得しました。とはいえ 彼は根っからの起業家で 起業したIT会社の売却で数億ドルを手に入れた後 決済会社ペイパルを立ち上げ その後 ロケット開発会社 スペースXを共同で立ち上げ テスラモーターズに投資することになった。
スペースX社は 通常は捨ててしまう第一弾の燃料ロケット部分を回収することに成功したロケット開発企業である。お役目を果たしたロケットが誘導され回収船の上に無事着陸する様子は全世界で放映された。本当に驚くばかりで 現実とは思えなかった。これで何十億円という費用の節約になるらしく 今後のロケットは皆こうなるだろうと言われている。
本題にもどって なぜテスラがこれほど人気があるのか その理由にはこれらすべてが絡んでいる。つまり イーロン・マスクが“実現”してきたアメリカン・ドリームである。皆の目をくぎ付けにしたロケット自動回収の実現やテスラの自動運転機能・・・。テスラを買おうというモチベーションの半分は このイーロン・マスクの未来を実現する力への共感や応援だと思う。
残りの半分は テスラそのもののクルマとしての魅力だ。テスラはエコロジーだけを売りにしてきた今迄のEVとはまったく違うのだ。モーターの持つトルク性能を活かした走り オートパイロット機能はあたりまえ しかも 35,000ドルのモデル3でさえ345キロの航続距離(日産リーフで280キロ)。
テスラのスーパーチャージャー(急速充電設備)が日本ではまだ普及していないのが残念だが もし私がカリフォルニアに住んでいれば あるいは日本でも家の近くにスーパーチャージャーがあれば 次のクルマは100% テスラだろう。
ところで トヨタの燃料電池車ミライはどうなったのだろうか。2014年末に販売して未だにこのモデルだけというのはどういうことなのだろうか。この実用性に欠ける4人乗りモデルの売りは“燃料電池”というだけだ。残念なことに“クルマ”としての魅力は聞こえてこない。最近ようやく トヨタとホンダが手を組み 11社で水素ステーション開発の共同会社を設立というニュースを新聞で見たが よく読むと年内に新会社を設立予定とある。なんと半年以上先の話しである。アメリカ流に言えば カレンダーを見て仕事をしているトヨタと時計を見て仕事をしているテスラの違いだろうか。トヨタのベンチャー精神はどこにいったのだろうか。
2017年6月 オーバーブッキング
先日 福岡から羽田行きの全日空便に乗った。日曜の夜の便だ。搭乗口の近くで時間をつぶしていると 5席のオーバーブッキングが発生したので協力してくれないかとのアナウンスがあった。アナウンスによると 協力してくれれば一時間後の便を手配し 1万円の謝礼を支払うという。時間に余裕のある人や羽田からの交通に心配のない人にとっては悪くない条件だ。様子を伺っていると どうやらすぐに協力者が現れ 問題は解決したらしい。
しかし オーバーブッキングによるユナイテッド航空の乗客引きずり降ろし事件が記憶に新しいだけに 何の遠慮もなしに堂々と「オーバーブッキングだ」というアナウンスがなされたのには違和感がある。これは私の想像だが 「ある程度の確率で現れない乗客がいるのだから その分を見込んで余分に予約を受けるのは当然のこと。乗りたい人がいるのに空席のまま飛行機を飛ばすのは 顧客サービスにならないし コストアップの要因にもなる。オーバーブッキングはむしろ顧客サービスにつながるのだ」とでも考えているのだろう。これがLCCなら分からないでもないが 正規料金で片道4万3千円するフライトの話しとなるといかがだろうか。ちなみに 全日空では昨年5351席のオーバーブッキング(不足座席)が発生したという。もちろん日航もオーバーブッキングをしているが 全日空の1/3程度である。
もう一つ驚いたのは 5席という数だ。予約したのに現れない人がいたかもしれないことを考えると 予約受付では5席以上のオーバーブッキングということになる。なぜこんなに大きな数になるのだろうか。オーバーブッキングの席数は過去の実績に基づいた厳密な分析結果によるものだと思っていたが ここまで狂うのであれば まともな分析が行われているかどうか疑わしい。
更にもう一つ「あれっ」と思ったのは 日本の国内便でも 予約はできたが座席指定ができなかった乗客がそんなにいるという驚きだ。たしかに海外の航空会社の場合 たとえ予約しても最後の瞬間まで座席指定ができないという場合がよくある。また ユナイテッドの場合には 座っていた客を引きずり降ろしたので 座席指定を受けたにせよ それは座席を保証したものでないということになる。もしかすると こちらの方が航空会社の世界の常識で 日本の航空会社が世界の常識に近づいているのかもしれない。
以前 家族5人でハワイ島コナからオアフ島ホノルルにLCCで行った時のこと 「オーバーブッキングが発生したので くじ引きで2名に飛行機を翌日便に変更してもらうことになる」というアナウンスに出くわした。そして 本当にくじ引きで2名が呼び出された。しかも そのうちの一人は オーストラリアからの旅行者グループ数人のうちの一人。その一人だけ翌日の便に乗ってくれという血も涙もない話だ。猛烈な抗議が行われる中 いったいどうなるのかと私は横で聞き耳を立てていた。結局 乗客の中に ホノルルは経由地で 最終目的地が他の島だったカップルがいて その二人がその便をキャンセルし 最終目的地に直接行く別便をアレンジしてもらうことになった。めでたしめでたしの結果だったが 限られた観光日程の中でこんなことがおきるなどぞっとした経験だった。
その時に私が得た教訓は「海外の国内便ではLCCに乗ってはいけない」というものだった。しかし LCCではないユナイテッドの米国国内便で乗客引きずり降ろし事件が発生して この教訓は「日程に余裕がない時には 海外の国内便はビジネスクラスにすべし」に変更しなければならなくなった。今回 オーバーブッキングのアナウンスを聞きながら いつか この教訓を日本の国内便にまで広げる必要が出てくるのだろうかと心配になった。すこしずつ日本の良さが失われていく。
2017年9月 ベストセラーの書き方
今 私は企業向けにビジネス思考とビジネス・ライティングを教えている。ビジネス・ライティングとは 自分のメッセージ(考えや主張)を読み手に伝えようとする「メッセージ・ライティング」だ。しかし ライティングには他にもいろいろな種類がある。例えば 新聞の社説は「メッセージ・ライティング」であるけれども 一般の新聞記事は情報提供を目的とする「情報ライティング」と言える。また 警察官や消防士の書く報告書は 証拠として採用できるように事実を記すことが重要な「ファクト(事実)ライティング」が基本だ。小説は読み手の興味を引き付けることを目的にした「ストーリー・ライティング」である。週刊誌は「情報ライティング」と「ストーリー・ライティング」の両方の役割を担うが「ストーリー・ライティング」の性格が強い。
さて メッセージ・ライティングをずっと教えていると その対極にあるストーリー・ライティングに大きな興味を抱くようになった。特に2年ほど前から 本当に小説を書いてみようかという気になり 暇を見つけて少しずつ勉強している。目指すのはストーリー・ライティングの究極の形 ミステリーだ。
小説の書き方の類の本をいろいろ読んでみたが ベストはアメリカの小説家が書いた「ベストセラー小説の書き方」(著者:ディーン・R. クーンツ)だ。1996年に書かれた古いものだが 間違いなくこれが一番。特にこの本でもっとも役に立つのが最後の章 「読んで、読んで、読みまくれ」という章だ。ここには 著者が主観で選んだベストセラー作家が数十人紹介されている。さらに 著者のコメントとともに 作家ごとに数冊の推薦図書が紹介され 推薦図書の数は合計で300冊くらいになる。著者は ここにリストされた本の1/5以下しか読んでいない人にはベストセラーは書けないと明言する。
この紹介図書の中から 私の興味対象外であるSFものを除いてみても 200冊を超す数になる。この中から著者が「名著」「必読」「秀逸のストーリー構成」などと記したものを厳選し とりあえず今 20数冊を読み終えた。1/5読むのも難しいかもしれないと思ったので その代わりに各図書を精読することにした。具体的には 書き手の視点で深読みし 読みながらストーリーラインをメモしている。読み終わった後には 1、2ページのストーリー・シートにまとめ 本の参考ポイント テーマ 登場人物構成などを書き留めている。
当然 この「ベストセラー小説の書き方」自体が20年前のものなので 紹介された図書もかなり古いものとなる。これまで ジェームズ・ケイン レイモンド・チャンドラー ダシェル・ハメット ウィリアム・ゴールドマン ジャック・ヒギンズ アイラ・レヴィンなどを読んでいるが 私の大好きなジェームズ・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は何と1934年の作品だ。ダシェル・ハメットやチャンドラーもかなり古い。しかし驚くことに こんなに古いのに発想にまったく古さを感じない。ベストセラーというのは時代を超えて生きるレベルの高さをそなえている。実に面白い。何冊か読んだ時点で なぜ「ベストセラー小説の書き方」の最後の章にこれを持ってきたのかを痛感した。やはり最後はベストセラーのベストセラーたる所以を実感することが大切なのだ。
こんなベストセラーなど私に書けるわけがない?・・・それが常識だろう。しかし そう思ったら何もできない。これら見事なベストセラーを読んでいると ますますチャレンジ精神をかき立てられてくる。
2017年10月 言葉の威力
あっという間に 総選挙が決まって あっという間に「希望の党」やら「立憲民主党」などが出現した。選挙結果がどうなるかは別にして 最近感じた「発言」や「言葉」について好き勝手に言ってみたい。
さすが総理大臣の安倍さんは言葉の使い方が絶妙である。解散発言から今現在(10月6日)まで 失敗らしい発言は見当たらない。というか 発言に中身がないので失敗も見当たらないというのが正しい表現かもしれない。ご本人は無難に解散批判を切り抜けたと思っているのかもしれないが 国民をばかにしてはいけない。国民は解散理由などお見通しである。
おそらくは安倍総理の意を受け 小池都知事に挑発的な発言を続ける小泉進次郎氏。どうもこのお坊ちゃんには中高年の気持ちが分からないらしい。今や中高年がアンチ自民で若年者が自民支持の時代と呼ばれる時代だ。ちなみに 自民党は若者の自民支持を反映して選挙年齢を引き下げたと言われている。中高年の私に言わせれば この小生意気な二世小僧の挑発的な発言は少なくともわれら中高年の更なる自民離れを招いたはずだ。
一方 舌鋒鋭いと思わせた小池都知事だが あの「排除」発言にはびっくりだ。なぜ排除などという言葉を使ったのだろうか。おそらくは つい本音が出てしまったのだろう。内容的に考えれば当たり前のことを言っているのだが このたった一言で驚くほど多くの票を失ったに違いない。「排除」・・・小池都知事は この言葉に潜む差別的なニュアンスを感じないほどに鈍感になってしまったのだろうか。
「三権の長経験者は遠慮してもらいたい」と語った希望の党の細野氏の発言にもびっくり。まさにゴーマン発言の何物でもない。これは小池氏に言わされたのか それとも自分の考えで発言したのか。なぜこんなことを公の場で言う必要があるのだろうか。対象者は二人しかいないのだから 直接言えばよいと思うのだが。
さて民進党から割れて立憲民主党を立ち上げた枝野氏。この立憲民主党と言う言葉にこだわったらしいが これを見た一般国民が何を思うかは考えたのだろうか。大隈重信の立憲改進党、板垣退助の立憲自由党、戦後の立憲政友会などなど やたら古めかしく時代錯誤的な印象を持つのは私だけだろうか。どうにも 新鮮さや未来を感じない。過去に引きずられた表現というイメージがしてしまう。「希望の党」も斬新さには程遠いが 立憲民主党よりはましな気がしてきた。
政治家のあまりにもひどいコミュニケーション能力に唖然としていた今日 カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞の発表を耳にした。その受賞理由がすばらしい。選考委員が「世界とつながっているという幻想の下に隠された闇(深淵)(the abyss beneath our illusory sense of connection with the world)をあらわにした」のが授賞理由だと言ったのだ。・・・すごい。選考委員の発表する授賞理由そのものが文学になっているではないか。「きずな」と言われれば誰も反対できないような今の時代に きずなという幻想の下に隠された深淵をあらわにしたというのだ。この選考理由一言で読みたいと思った人が何万人もいるはずだ。カズオ・イシグロを読んだことのない私もすぐに三冊注文したのだから。
2017年11月 横浜マラソン中止に思う
10月29日に予定されていた第3回横浜マラソンが台風のために中止になった。結果からみれば これは正しい決定だった。走ることだけをかんがえれば多少の風雨でも大丈夫だが 多くの給水・給食ステーションが仮設テントで設営されることを考えれば 強風の中の開催は危険すぎる。開催中止後の連絡も概ねよかったと思う。なかなかに迅速な通知だったし 完走タオルの追走 次回大会への優先参加など 内容的に見ても妥当な結論だと思う。
しかし そもそも どうしても解せないのが開催月の変更である。第1回と2回は3月下旬の開催だった。それが突然のように今年の第3回開催から10月末に変更になったのだ。異常気象の今日 10月の台風など珍しくもなんともない。しかも台風がないとしても 10月のマラソンなどまったくランナーのことを考えていないかのような日程設定だ。一般市民ランナーから言わせていただくと
● 10月末は市民マラソンには暑すぎる。この時期に3万人近い市民ランナーを走らせるなど無謀に近い。おそらく救急車のお世話にある人は3月開催の3倍くらいになるのではないだろうか
● 次に 同じ暑さという観点から 10月開催では十分な準備ができない。一般市民ランナーの場合 大会の3か月前くらいからトレーニング量を増やすことになる。となると 10月開催に間に合わせるには遅くとも7、8月くらいから走る量を増やしていくことになる。酷暑の時期である。これでは満足な練習量を維持するのは難しい
● 更にもう一つ別の観点からも 10月開催では準備に時間をさけない。一般企業に勤務するビジネス・パーソンにとっては9~10月はどうしても仕事で忙しい時期だ。この時期に走る量を増やすのはなかなかに難しい。3月開催の場合 普通の人は1~2月は仕事的にはゆったりしている時期なので 十分に走る時間も取れるのだ
ちなみに今迄10月に開催される大型市民マラソンとしては 10月下旬に開催されていた大阪マラソンが唯一だった。他の大型マラソンはすべて11月以降の開催だ。ところが 大阪マラソンも酷暑との悪評に勝てず 参加者倍率は当初の5.5倍から4.2倍に確実に低下していった。そしてついに今年から 大阪マラソンも10月下旬開催をギブアップし11月下旬に日程変更することになった。今年は11月26日開催予定だ。実は神戸マラソンがこの一週間後(11月19日)の開催なのだが 日程の正面衝突覚悟のうえでの変更ということだ。
横浜マラソンは大阪マラソンの状況からまったく学んでいない。しかも まったく逆のことをやっているのだから何とも言葉が見つからない。もしかして10月開催にすれば2月開催の東京マラソンと競合しないので参加希望者が増えるとでも思ったのだろうか。参加者の立場でいうと 1か月空いていれば両方走るのには十分である。もし期待ほどに申し込みが伸びていないのであれば それは日本一高い1万5千円の参加料のせいではないだろうか。あるいは前日までに済ませなければならない現地での参加手続きのせいもあるかもしれない。(私はこのためにわざわざ高騰する横浜のホテルに前泊することにした。今回の中止でそのホテル代も無駄となってしまった。)
今回の台風騒動をきっかけにぜひ開催日の再考をお願いしたい。
2017年11月その2 カズオ・イシグロを読む
ノーベル賞作家カズオ・イシグロの作品を読んだ。「日の名残り」 「私を離さないで」 そして 「忘れられた巨人」の三作品である。「さすがノーベル文学賞」の一言に尽きる。
「日の名残り(The Remains of the Day)」は1989年の作品。ブッカー賞受賞作。老境に差し掛かった執事の回想で話が進む。同じく執事を務めた父を手本に執事でもっとも重要なものは“品格”だと信じる主人公。品格を生きるよすがとして実直な執事生活を続けてきた。ある日 以前女中頭だった女性を訪問する一週間の休暇旅行に出る。この旅が初めて仕事を離れ外からゆっくりと自分の人生を振り返るきっかけになる。旅を通じ 今迄けっして疑うことのなかった自らの頑なな人生に もしかすると他の生き方もあったのかもしれないと気づく。
老境を前に人生を振り返る執事に 執事という陰の仕事の価値 かつて英国政治の中心にいた貴族が大衆からの乖離いく様子 そして英国の斜陽を巧みに重ね合わせて描く。共通するのは 変化の中で静かに輝きを失う昔ながらの価値観 そして それを当然の事として受け入れざるをえない現実。考えつくされた展開にはまさに脱帽である。リアリティの高い丹念な描写は 本当に執事経験者の語り口に思えるほどだ。
「私を離さないで(Never Let Me Go)」(2005年)は臓器提供の目的で産み出され育てられた多くのクローン人間の一人が自分の過去を振り返る話。これだけ聞くと 臓器提供のためにクローン人間を産み出すことへの倫理的な批判が作品の根底にあるように思えるが 本書のテーマはそこにはない。主人公は 自分の環境を憤るのではなく 他者を批判するでもなく 自分の運命を素直に受け入れようとする。一般人とは異なる環境の中でも 友情や愛を育んだ子供時代を楽しく振り返り 成長した後も残された人生を精一杯生きようとする。どうしようもなく不合理な運命にありながらも 普通の人と何ら変わりなく 生きる価値を追い求める。だからこそ 逆に その不合理な運命への憤りが読み手の心に強く響く。
世界にはロヒンギャを始めとする多くの虐げられた少数民族がいる。“絆”の価値が声高に叫ばれる中 彼らは深い闇で仕切られた世界に孤立しているのかもしれない。日本人の両親を持ち 英国と言う保守的社会で育ったイシグロならではの感性がうかがえる作品だと思う。
「忘れられた巨人(The Buried Giant)」(2015)は最新作。舞台はアーサー王死後のブリテン国。ブリトン人を率いるアーサー王はサクソン人との闘いに勝利しブリテンを制する。ただし 勝利の裏には 平和協定を踏みにじり多くのサクソン人を虐殺した忌まわしい過去があった。アーサー王は 自分の亡き後 これら虐殺の記憶がサクソン人の恨みと反撃を引き起こすことを恐れる。アーサー王の助言者 魔術師マーリンは 人々の脳裏から虐殺の過去を忘れさせるために 忘却の魔法をかける。忘却の魔法は霧となり村々を覆い 人々の記憶を消し去っていく。そのおかげで 霧に覆われた村々の人は ブリトン人もサクソン人も虐殺の過去を忘れ 平和な暮らしを続けることになる。話はここからスタートする。
登場するのは 消された子供の記憶をとりもどしたいと願う愛情深いブリトン人の老夫婦。ブリトン人攻撃のためにサクソン人の恨みの記憶を蘇らせようと西方からやってきたサクソン人戦士。アーサー王の命を受け 平和を維持するために魔法を守ろうとするブリトン人騎士。竜と血を通じ心を通わせる勇敢な少年。記憶をめぐってそれぞれの思いが交錯する。
忌まわしい過去があり その過去の記憶が蘇ったとしても 老夫婦の間の愛情に変わりはないのか。虐殺は罪であるけれども 平和を維持するためには過去を忘れることが大切なのだというブリトン人騎士の考えは通用するのか。あるいは 虐殺と忘却の上に成り立った平和は偽物であり 長続きしないのか。・・・日本が過去に起こした虐殺の記憶はどうすれば償えるのか。今世界中で行われている虐殺の記憶はどう語り継がれるのだろうか。過去の罪 罪の記憶という永遠のテーマを投げかけた意欲作。
他の二作品が主人公の回想と言う形で一人称で描かれているのに対し この作品は三人称で展開する。また 他の二作品はリアリティを前面に押し出した丹念な描写が特色だが 本作品は想像の世界であり 目まぐるしいストーリー展開が読む者を引き付ける。更に 想像の世界ということもあり 幾つものメタファーが登場し テーマ追及に深みをもたらしている。テーマ・描写・ストーリーのすべての面でカズオ・イシグロの力を見せつけた作品。ここに挙げた三つの作品の中では この「忘れられた巨人」が私のイチ押しである。
2017年12月 日産問題に思う
年末の大学同級生との飲み会で 日本メーカーのモラル低下が話題になった。神戸製鋼の不正から始まり 直近のJR西日本での新幹線台車亀裂問題など 本当に日本のモノづくりはどうなったんだろうか?
さて中でも何か割り切れなさを感じたのが日産の無資格者による車両検査問題である。この背景にはもっと根本的な メーカーのモラル以外の問題がありそうな気がしてならない。要は「検査員」という制度そのものだ。よく考えると 検査員は検査される会社の従業員。つまり 検査する人が検査される会社に雇われているというおかしな構図になっている。まるで オオカミにオオカミの番人を任せているようなものだ。これはおかしい。
そんなに大事な検査ならば 「検査員」という印籠をメーカーに持たせること自体がおかしい。単純に 検査項目と検査手順を定め それにしたがって検査するように法で定め それが確実にやられているかどうか 年に一回でも監督官庁にて抜き打ち検査すればよいではないか。なぜこういう仕組みをとらなかったのだろうか。
元環境省のエリート役人(技官)だった同級生がこれには霞が関が絡んでいるのではないかと言い出した。この車両検査を管轄するのは国土交通省。管轄すると言えば聞こえがよいが 要は検査員の資格を付与するお役所の団体があって そこが自動車メーカーから検査員の資格教育や資格付与の費用をかすめ取っているのではないかという話しだ。もちろん実際の検査業務はメーカーに丸投げだ。当然 その団体のお偉方は霞が関の天下りルートになっているはず。
なるほど。役所で直接検査するような仕組みを作ると手間もかかるし責任も生じる。「検査員」という仕組みを作れば 自分たちの手を汚す必要はない。しかも検査員教育と資格試験の方が儲けはずっと大きいはずだ・・・彼が正しいかどうかは別にして妙に説得力のある話だ。もしこれが本当の話しならば 当然 自動車メーカーの人間は検査の裏の意味を知っているはずで 検査自体を軽んじるのも致し方ない。なにか一昔前の日本型官僚主義の幽霊をみた思いがする。
私は水素社会実現の信奉者である。二度目の車検が済んだ愛車を見ながら 次に買う車はぜひ燃料電池車にしたいと考えている。しかし こればかりは政府の後押しなしには進まない。水素社会推進・燃料電池車開発に向けていろいろな制度が導入されるだろうが 日本型官僚主義にだけは邪魔をしてもらいたくない。もうそんな時代ではないと思う。
2018年が皆様にとってより良い年でありますように。
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